膨れあがるプライド
厄介なことに年配者も、中学生と変わらないプライドと恥じらいを持っている。いや、中学時代ではなく、「人生で最もプライドが高かった時期」から変わらないといっていい。だが、年配者は思い通りにならずに自分を情けなく思い、それを恥じる。そして高いままのプライドはいたく傷つく。いまさら体力や能力は伸びないのだから、相対的にプライドばかり肥大化している。
要介護になった年配者は、下半身をむき出しにされて下の世話をされても気にしないと思われがちだが、それは大間違いだ。私の両親の様子を見るに、若い人と変わらずに激しい羞恥心を抱いているようだった。私はまだそのような状況には至っていないが、下半身にかかわる検査を受けたり、手術を受けたりしたときには、やはり昔と変わらぬ恥じらいを覚えたものだ。
若々しい肌だったころも恥ずかしかったのだろうが、いまや体のあちこちにシミができ、全体がたるんでいる。そんな姿を見られたくないという羞恥心も覚える。若いころに体を鍛えていた人や、周囲から美男・美女と持て囃された人であれば、なおさらだろう。
私の母も老人施設でグループワークをするとき、しりとりなどの得意なレクリエーションには喜んで参加したのに、病のために指先の自由が利かなくなっていたので塗り絵や楽器演奏は渋った。できない自分を嘆き、できる人への羨望と嫉妬を隠さなかった。足腰が弱り、要介護状態が進んで、幼児ほどにしか活動できなくなっても、大人としてのプライドは持っている。
サメテガルの意識で、「年寄りになればこんなものだ。私だけじゃない」「恥ずかしいかどうかなんて、どちらでもいいことだ」と思えれば済むのだが、なかなかその境地には達しない。煩悩は抑えきれず、プライドは捨てきれない。
※本稿は、『70すぎたら「サメテガル」: 「老害」にならない魔法の言葉』(小学館)の一部を再編集したものです。
『70すぎたら「サメテガル」: 「老害」にならない魔法の言葉』(著:樋口裕一/小学館)
現役時代は「旗幟鮮明」を求められて生きてきたが、リタイア後は多くの場面でその姿勢は必要なくなる。
それどころか、過去のやり方、考え方、振る舞い方に拘泥しすぎると、「老害」扱いされかねないこともある。
そうならないための魔法の言葉、それが「サメテガル」である。