一番の悪人になった僧侶

親鸞は、僧侶でありながら結婚し、肉を食し、戒律を破りながらも、自らを「救われた悪人」と名乗りました。普通、宗教の指導者といえば清廉潔白なイメージを大事にするものですが、彼は違いました。むしろ「私は誰よりも煩悩まみれの愚か者だ」と告白し、それを隠すことすらしませんでした。

また彼は「弟子一人も持たず候(弟子は一人もいない)」とも言いました(『歎異抄』)。

実際には多くの弟子がいましたが、本人は「こんな煩悩まみれの自分が、弟子など持てる身ではない」との思いだったのです。

これまでの仏教では、僧侶が上、信者が下、という関係でした。しかし、親鸞はその構図を崩したのです。「私たちは皆、同じ煩悩を抱えた人間なのだから、上下関係などない」と。

実際、彼は「御同朋(おんどうぼう)」「御同行(おんどうぎょう)」という言葉を使いました。これは「私たちは、仏の前ではみな兄弟のようなものだ」という一大宣言です。これは、それまでの僧侶の立場とはまったく異なる考え方でした。

通常、宗教の教祖とは「私は神の使いだ」「私は仏の生まれ変わりだ」と、自らを特別視して、一番上に立つものです。しかし、親鸞はまったくその逆で、こう言ったのです。

「私は一番下にいる。こんな私でも救われたのだから、あなたも救われるのだ」

また、親鸞は「老少善悪の人を選ばず」とも言いました。年齢、善悪、能力の有無に関係なく、すべての人が本当の幸せになれるのだと。彼のこの教えは、衝撃的でした。