オルドリッチ・エイムズ事件

オルドリッチ・エイムズ事件は、冷戦末期の米中央情報局(CIA)を揺るがす最大級の内部スパイ事件である。エイムズは1985年、経済的苦境から自らソ連大使館を訪れ、5万ドルと引き換えに二重スパイのリストをソ連に売却したが、当初は一度限りの取引と考えていた。

しかし、KGBの対諜報責任者ヴィクトル・チェルカーシンは、エイムズを単なる一度限りの協力者ではなく、継続的なエージェントに仕立て上げた。チェルカーシンは脅迫を用いることはしなかった。チェルカーシンは、「私たちの最大の関心事は、あなたの安全だ。それ以外は二の次だ。何を求めるか教えてくれれば、その通りにする。我々はあなたのルールに従う。」とエイムズを脅すのではなく、寄り添う姿勢を見せた。

そして、チェルカーシンは、エイムズの自己正当化の動機付けとして「あなたを守るために、CIAのどのエージェントがKGBに潜入しているのか知る必要がある。彼らがあなたの正体を知る前に、手を打たなければならない。」と伝えたという(4)。

この言葉によって、エイムズは、一度切りの関係ではなく、続けてCIA内のスパイリストを渡す決断をした。この結果、エイムズは一時的な金銭目的の裏切りから後戻りできなくなり、継続的な情報提供へと踏み込んだ。本件は、経済的動機を根っこにしつつ、相手への「支援」「救済」を行い、「正当化」を丁寧に実践した例である。

これまでの手法を総合的に考えると、ターゲットとの信頼関係を築きながら、利益や支援をちらつかせ、一方で、状況に応じて脅迫・恐喝も辞さないという両面の工作を使い分ける様子がうかがえる(実際には、危機に追い込む側面が強い<5>)。

また、脅迫一辺倒だと相手が離反しやすいため、恩を感じさせる手段で抱き込んでおきたいという方針があったという。KGBの冷酷非情なイメージとは裏腹に、ソフトな接近も重んじられていた面があるのがわかる。

つまり、いきなり脅迫や買収に走るよりも、ターゲットに「支えられている」「理解してもらっている」という意識を植え付ける。また、相手自身が「これほどしてもらったのに裏切るわけにはいかない」と感じるように仕向ける。そのほうが、長期的には安定した協力者を確保しやすいのである。

その過程で頼みごとを少しずつ重ねると、「これくらいなら」と言いながら情報提供が常態化する。やがて「自分は裏切り者になってしまったのだろうか」という罪悪感を正当化するために、「この組織のために行動するのが当然だ」と思い込む心理状態へ移行していくのだ。

(4)Randy Burkett『An Alternative Framework for Agent Recruitment: From MICE to RASCLS』(2013, CIA)
(5)The Daily Beast『Revealed: The Secret KGB Manual for Recruiting Spies』