「木曽(きそ)のお父さまのことがご心配かもしれませんけど、いまはここで精一杯勉強するのが親孝行だと思ってくださいね」
木曽――? 縁もゆかりもないぞ。
ハルが考えていると櫻井先生は視線を波子に向けた。波子は深々と頭を下げる。
「伯母の芳子(よしこ)でございます。このたびは、無理なお願いをきいていただきありがとうございます。学業優秀な子ですので、見るに忍びなく引き取ることにいたしましたの。どうぞくれぐれもよろしくお願いいたします」
ハルは蚊帳の外に置かれたような気分のまま、ふたりのやりとりに耳を傾ける。
代々、木曽で旅館業を営んできた青山家だが、不況の煽りを食って経営が傾き、ハルも三年生で女学校を中退しなければいけなくなったところを、台北に嫁いだ芳子こと波子が救いの手を差し伸べて、遠い親戚筋にあたる蔡家の伝手でこの学校に編入したというシナリオらしい。
「授業のあと、寮にもご案内いたしますね。週末の土曜日だけ、届出をすれば外泊も自由ですけれど、台北ではちょっと離れていますわね……」
その言葉に驚いてハルは波子の顔を見た。まさか寮暮らしなんて思いもしなかった。
波子は、この子は我慢づよい子ですから、大丈夫だと思いますわ、と微笑みながらも、少しだけ申し訳なさそうな顔をしている。
――百合川にすっかりだまされた。
別れ際に、波子は百合川からといって小さな紙片をハルに手渡した。その紙片に百合川の美しい文字で書かれた「木曽路はすべて山の中である」という言葉を見た瞬間、ハルは、どこかできいたことがありつつも、よくわからなかった自分が生きている物語がなんであるのかはっきりと理解した。
あたし、藤村(とうそん)が好きなんて小姐にどこかでいったかしら――。
(続く)
