2日後のセルビア戦、さらに4日後のブラジル戦はさすがに無理だが、6日後の韓国戦での復帰を目標にしよう。もちろんスタートは無理だろうから、途中からワンポイントでもいいから、と久美さんから言われた。

私もそのつもりだったので、できるだけ早く復帰できるように、すべての力を尽くすだけ。日本開催だったこともプラスに働き、十分な治療器具、治療環境が整った中、至れり尽くせりと言っても決して大げさではない治療ができた。小原先生や若さんだけでなく、治療に関わってくれたすべての方々のおかげで私は驚異的な回復を遂げ、約束通り、韓国戦に出場することができた。

本当はまだ痛かった。

でも、私は「やる」と決めてから、誰にも「痛い」と言わなかった。

そして誰にも言わなかったのは私だけでなく小原先生も同じ。本当は、最初の診断の時点で私の捻挫は到底オリンピック期間に間に合うような軽症ではなかったそうだ。それを伝えれば、私の心は折れてしまうのではないか。何より、あれほど頑張って目指したオリンピックをこのまま終わらせるなんてかわいそうだから、と「すべての責任は自分が取るから」と小原先生が押し切ってくれたと後から聞いた。

その判断を、医療従事者や指導者の中には否定する人もいるかもしれない。それでも、私個人、日本代表としてオリンピックに出場した古賀紗理那の目線だけで言わせてもらえば、本当にありがたかった。

あの時先生が「大丈夫」と言ってくれたから、最後まで頑張ることができた。

今でも、小原先生に会うたび「ありがとうございました」とお礼を言わずにはいられない。「もういいよ」と小原先生は笑うけれど、私にとっては一生感謝をしてもしきれないほど、小原先生の「大丈夫」は大きな言葉だった。