入院・手術からの復帰作、熱海五郎一座『落語日本花吹雪~出囃子は殺しのブルース~』(2012年)より(写真提供:アミューズ)

稽古場に行くたび心苦しくて……

そこで司会者・三宅裕司の誕生となる?

――ええ、そうなんです。TBSさんから『テレビ探偵団』という企画が来て、ここで初めて司会にチャレンジするんですが、これが視聴率20パーセント行っちゃうんですね。そこから司会者・三宅裕司が誕生し、当時ラジオを含め複数のレギュラーをもっていました。

ところがその一方で、SETの本公演のことが全然できなくなってしまったんです。正直、稽古場に行くたびに心苦しかった。さらにこの時期、SETの人気スターだった岸谷五朗と寺脇康文が劇団をやめてしまうんです。

 

岸谷さんによると、「三宅さんって、とってもいい人」だとか。

――ええ、いい人なんですよ(笑)。二人が去るのを黙って送り出したんですから。そこから僕と小倉久寛のコンビで建て直そうと頑張っている時に、思いもかけないことが起こるんです。急性の脊柱管狭窄症と椎間板ヘルニアを併発して、10日くらいの間に足が痺れて歩けなくなった。救急搬送されてすぐ手術。60歳の時です。

その時、マネージャー連中が緊急会議を開いたりしていると、そこに出てくるのが、うちの女房でして。「大丈夫です。三宅は治ります。三宅が動いてる姿が私には見えますから」って言うんですね。

僕は後から知ったんですが、症状は相当深刻で、二度と歩けないかもしれないと言われていたらしい。でも、女房から大丈夫って言われたんで、僕も気持ちがすごく楽になり、リハビリに励み、半年で復帰できた。

思えば女の人ってすごいですね。母親にしても女房にしても、何の保証もないのに、未来を言い当てちゃうんですから。この入院中、「いかん、俺は東京の喜劇をやんなくちゃ」と、ずうっと真剣に考えていました。

大学生の頃、おばあちゃん孝行で、藤山寛美さんの松竹新喜劇を新橋演舞場に観に行ったんです。その時に、「なんでこの東京銀座で、大阪の喜劇をやっているんだろう」と疑問に思ったことを、入院中に思い出したんですよ。これが第3の大きな転機ですね。