一本の電話から全国区の人気者へ
三宅さんが芸能界で軌道に乗るのは、大学卒業後6~7年を経た29歳の時。突然かかってきた一本の電話からだ。
――その前に、僕は大学を卒業してまずは「日本テレビタレント学院」に入るんですが、子どもばっかりでつまらないんですぐやめて。次に、東京新社という会社が「東京新喜劇」という劇団を作るという記事を雑誌で見て、これだと思ってオーディションを受けに行き、合格したんです。
ところが、このネーミングはポール牧さんがすでに使っているということで(笑)、劇団名が「大江戸新喜劇」に変わってしまう。これじゃ時代劇専門みたいな感じでしょ。そこの芝居は何だか浅草っぽい喜劇で、僕が思っていた音楽やアクションを入れた喜劇とは違っていた。
それで劇団にいた15人とともに脱退して、スーパー・エキセントリック・シアター(SET)を旗揚げするんです。でも全然売れなくて。ところが、うちの兄貴の喫茶店で雇われマスターをしていた時に、運命の電話がかかるんですよ。
電話の主は東京新社で一番下っ端だった出口孝臣さん。会社から独立し、「これからの時代はコメディーと音楽だ。ん? 三宅裕司というやつがいたな」と思い出したそうです。実はこの電話が第2の転機で。
出口さんがSETを見て気に入り、あちこちに売り込んでくれたんです。そこで現在の所属事務所アミューズの大里洋吉会長とも知り合い、僕を売り出そうということに。当時すでに売れっ子だったサザンオールスターズの冠番組『サザンの勝手にナイトあっ!う○こついてる』に、レギュラー出演することが決まるんですよ。
そこで注目されて、SETの芝居の評判もよくなったし、ニッポン放送の『高橋幸宏のオールナイトニッポン』に呼ばれたことから『三宅裕司のヤングパラダイス』も始まって。もうそこからは、ドーンと全国的に知られていくわけです。