(撮影:岡本隆史)
演劇の世界で時代を切り拓き、第一線を走り続ける名優たち。その人生に訪れた「3つの転機」とは――。半世紀にわたり彼らの仕事を見つめ、綴ってきた、エッセイストの関容子が訊く。第46回は俳優の三宅裕司さん。仲間と立ち上げた劇団が売れていなかった頃、ある人物からの電話が転機となったそうで――。(撮影:岡本隆史)

前編よりつづく

一本の電話から全国区の人気者へ

三宅さんが芸能界で軌道に乗るのは、大学卒業後6~7年を経た29歳の時。突然かかってきた一本の電話からだ。

――その前に、僕は大学を卒業してまずは「日本テレビタレント学院」に入るんですが、子どもばっかりでつまらないんですぐやめて。次に、東京新社という会社が「東京新喜劇」という劇団を作るという記事を雑誌で見て、これだと思ってオーディションを受けに行き、合格したんです。

ところが、このネーミングはポール牧さんがすでに使っているということで(笑)、劇団名が「大江戸新喜劇」に変わってしまう。これじゃ時代劇専門みたいな感じでしょ。そこの芝居は何だか浅草っぽい喜劇で、僕が思っていた音楽やアクションを入れた喜劇とは違っていた。

それで劇団にいた15人とともに脱退して、スーパー・エキセントリック・シアター(SET)を旗揚げするんです。でも全然売れなくて。ところが、うちの兄貴の喫茶店で雇われマスターをしていた時に、運命の電話がかかるんですよ。

電話の主は東京新社で一番下っ端だった出口孝臣さん。会社から独立し、「これからの時代はコメディーと音楽だ。ん? 三宅裕司というやつがいたな」と思い出したそうです。実はこの電話が第2の転機で。

出口さんがSETを見て気に入り、あちこちに売り込んでくれたんです。そこで現在の所属事務所アミューズの大里洋吉会長とも知り合い、僕を売り出そうということに。当時すでに売れっ子だったサザンオールスターズの冠番組『サザンの勝手にナイトあっ!う○こついてる』に、レギュラー出演することが決まるんですよ。

そこで注目されて、SETの芝居の評判もよくなったし、ニッポン放送の『高橋幸宏のオールナイトニッポン』に呼ばれたことから『三宅裕司のヤングパラダイス』も始まって。もうそこからは、ドーンと全国的に知られていくわけです。