若い時分からしっかりした人物だった

永禄元(1558)年に、吉乃の兄である生駒家長に宛てて出したという秀吉と秀長の手紙が生駒家に残っています。これらは後世の写しのようですが、家長が取り立てた年貢を秀吉と秀長のもとへ届けたことへの返書で、「一貫文不足していた」という内容です。

この頃、まだ信長は尾張一国を統一しておらず、同じ織田家の一族で尾張の北四郡を支配する織田伊勢守家と激しい戦いを繰り広げていました。信長は同年に起こった伊勢守家との戦い(浮野の戦い)で勝利し、伊勢守家から奪った支配地を豊臣兄弟ほか部下たちに分配していたので、この知行地から納められた年貢のことをいっています。

織田信長像(写真はイメージ。写真提供:Photo AC)

なお、秀長はこの手紙で「年貢は公用なのだから、鐚(びた)銭(粗悪な銭貨)ではなく正銭(当時の公用通貨である永楽通宝)で納めてほしい」と注文をつけています。秀長は若い時分からしっかりした人物だったことがうかがえます。

つまり、兄・秀吉に説得されて農民から武士に転身した秀長は、浮野の戦いが起こった永禄元年までには、正式に秀吉の部下として信長に仕官していたことになります。

※本稿は、『図解 豊臣秀長』(興陽館)の一部を再編集したものです。

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