つい先ほど「働く母親への風当たり」という言葉が頭をよぎったけれど、専業主婦への風当たりもひどく、友人にも悩んでいる人が多くいる。それだけでなく独身者も、子供を持たない選択をした既婚者も、あらゆる状況の人が中傷にさらされている。「今日も早退した子持ちの尻拭いだよ」「そろそろ働いたら?」「子供がいない人はいつまでも精神が子供のまま」「いいよね独身は、好き勝手できてさ」不気味なのは、どの中傷も、発生する背景がなんとなくイメージできてしまうことだ。知っている。どの地獄も、それを薄めたものを味わったことがある、と舞子は舌に苦さを感じる。さらに、既婚者だとか独身者だとか、そうした属性が同じでも、健康状態や経済状況、家族の性格によっても生活の体感は大きく変わるだろう。
私たちはみな、それぞれ別々の泥濘(ぬかるみ)を、足を取られながらざぶざぶと、懸命に渡っているのかもしれない。
――どこへ向かって? なんのために?
舞子は再び目をつむり、晴れた空に顔を向けた。背後の子供の声に誘発されて、ちらちらと櫂人の顔が浮かぶ。今頃は水泳教室で泳いでいるはずだ。先週は息つぎのコツがつかめず、一人だけ別のレーンで練習することになってちょっと恥ずかしかった、と悩んでいたけれど、大丈夫だろうか。一つ浮かべば次々と、悩みの泡が増殖する。もう先ほどのように、日射しや風の音をしみじみと味わうことは難しい。
ああ、そうか。こんな悩みだらけの泥濘を、七十歳まで歩き続けた先に、古希の日があるのだ。
私なら、ご褒美が欲しい、と舞子は思う。長く人生を歩き続けたご褒美。でもそれって、なんだろう。
風を冷たく感じるようになってきた。コートの前をかき合わせ、舞子は屋上庭園をあとにした。館内に戻り、暖房の暖かさに一息つく。
人生の、ご褒美が欲しい。いつか私も欲しい。それは、高価な宝石や時計だろうか。それとも着物? 美術品? なにが私を満たしてくれるだろう。エレベーター脇のフロア案内板を見て考え込む。
ご褒美。頑張ったな、という充足を感じられるもの。
頑張ったな、と感じる余裕を確保するなら、その瞬間は頑張っていない方がいい。少し力が抜けて、悩みが遠くなっているくらいがいい。舞子は考え考え、スマホを取り出した。
出典=婦人公論
彩瀬まる
作家
1986年千葉県生まれ。上智大学文学部卒業。2010年「花に眩む」で「女による女のためのR-18文学賞」読者賞を受賞しデビュー。『やがて海へと届く』が映画化、『くちなし』『新しい星』で直木賞候補となる。他の著書に『眠れない夜は体を脱いで』『森があふれる』『みちゆくひと』などがある。
