憎しみの感情が解けるとき

レストランで、近くのテーブルに座っていた男性が新聞を読んでいた。

「お母さん、アメリカの新聞も8月15日を大きく取り上げてるわよ」

『わが人生に悔いなし』(著:瀬戸内みなみ/飛鳥新社)

長女の美どりがそういって立ち上がり、その男性に話しかけた。母は戦災孤児だった、といったのだ。

「お節介ですよねえ。ただ戻ってきた娘がいうには、その方は真珠湾で負傷したのだそうです。気がつかなかったのだけど、片足が義足でした」

食事が終わって彼は立ち上がり、セルフサービスの食器を片付けると、すっと香葉子の脇に立った。そして帽子をとって胸に当て、深々と頭を下げたのである。

「びっくりしてどうしていいかわからなくて、慌てて立ち上がって、どうも、とだけいいました。そのとき気がつきました。悪いのは戦争なんだと。この方も戦争で傷を負ったのだ。そう気づいたとき、憎いと思っていた感情がすっと消えたんです。

時代は変わった、と思いました。恐れ多いことですが、わたしは昭和天皇も嫌いだったんです。親戚の家を転々としていたとき、新聞に大きく載っていた天皇ご一家の写真をたまたま見たことがありました。ご一家は仲睦まじいご様子で、皇后さまは福々(ふくぶく)しく太っておられて……。わたしにだって優しい両親や、兄弟がいたのに、と、羨ましくて仕方なかったんです。陛下がひとこと、戦争をやめろ、とおっしゃっていれば、わたしの家族もきっと死ななくてすんだのに。そう思うと悔しくて。

朝日新聞でエッセイを連載していた30年ほど前に、お読みになった三笠宮さまご夫妻に招かれて戦争体験をお話ししたことがあります。子どもたちが大騒ぎしましたよ。お母さんが昭和天皇が嫌いだなんて話したら大変なことになる、捕まっちゃうよ、なんていうんですけど(笑)、せっかく機会をくださったんだから本当のことをいってくる、といって出かけました。

妃殿下は涙を流し、殿下は『いいお話をよくぞ聞かせてくださいました』といってくださいました。いい話のはずがないですよね。でもそのとき、皇室憎し、の感情が消えました。

今上(現上皇)陛下はわたしと同じ年齢です。その陛下は鎮魂のために、各地をああやって回ってくださっている。ありがたいことだと思います」