だから「素の私」がどんなものなのかは定かではないものの、私がそのまんま出ちゃっているんだろうなあと思うのが、バラエティ番組です。オンエアを見て「うわっ」と思う(笑)。アタフタしちゃって、テンポ良くうまい言葉が出てこないんです。

決まったセリフを言うのとは大違いですね。ここでこう切り返していたら、もっとおもしろかったのに、といつも反省することになります(笑)。素の自分というか、人柄や性格って、本人に自覚があろうとなかろうと、ああいう瞬間にこぼれ出ちゃうものなのかもしれませんね。

一方、自分に与えられた「役柄」については、じっくり台本を読んで、その人物がどういう性格なのか、どうしてこんな行動をとるのかを理解して、自分なりに咀嚼してから演じるようにしてきました。これは基本だと思っています。

ところが、間もなく公開予定の映画『MOTHER マザー』で、どうにも理解できない人物に出会ってしまいました。この作品は実際に起きた事件に着想を得たフィクションです。私が演じたのは、自堕落で奔放で、その場しのぎの生活を送るシングルマザーの秋子。

秋子は息子の周平を自分の分身のように扱い、学校にも通わせません。一方、周平にとっては、どんなにひどい母親であろうと頼れるのは秋子だけ。社会から孤立していく母と息子の間には、特別な感情が芽生えていきます。

私は、台本をいくら読んでも、この秋子の考えや行動がどうにも理解できませんでした。なぜこんなひどいことを息子に言うのか、どうしてこんな振る舞いを繰り返すのか。でも、演じなくてはなりません。考えた末に、秋子ではなく物語に寄り添うことにしました。

感情に突き動かされるままに行動した結果、物事が悪い方向へ転がってしまうことって、誰の人生にも起こりえます。そして、一度歯車が狂い出したら最後、どんどん悪いほうへ進んでしまうことも。秋子と周平は、周囲の救いの手も届かないところまで転がり落ちてしまった──。

『婦人公論』7月14日号の表紙に登場している長澤まさみさん(表紙撮影:篠山紀信)

この物語が訴えたいことをそのように解釈し、そのうえで、場面ごとに秋子の胸に湧き上がる感情を受け止め、その瞬間を一所懸命生きるように演じました。心がけたのは、秋子に同情の余地を残さないようにすることです。彼女がしたことは許されない。「心の弱さゆえに」という解釈を成立させてはいけないと思いました。

人物像をつかめないまま演じたのは、実は初めての経験です。でも私自身だって、自分がどういう人間なのかよくわからないのです。秋子自身だってわかってはいなかったでしょう。秋子に限らず人間って、そんなに自分のことをわかっていないのかもしれません。この役に出会えて、演じることの奥深さにあらためて気づけたような気がします。