音楽教室に勤める駒子は、同じ教室でギターを教える長谷川から、母の過去について問われるが……。70年代後半に活動していたバンド「ザ・ラストサウンズ」と、駒子の母との関係は?  新刊『帰れない探偵』で読売文学賞を受賞された、柴崎友香さん、初のWEB連載小説スタート。

夢の外側 十四回 

 

七 救いたい彼女(承前)

 

夢の外側 14  

7 救いたい彼女

夢の外側 十四回 

七 救いたい彼女(承前)

 壁の時計を見ると、午後十一時近かった。駒子(こまこ)も千景(ちかげ)も翌日仕事があるが、もう少し話したかった。

「お母さんはその、親の借金を背負ってだいぶ過酷な仕事を続けなあかんかったから、それがつらくてこまっくにきつくあたってたんかなあ」

「まあ、それはあるよね。私も自分が働くようになって、周りの友達も仕事して家事もやるのがすごく大変だってリアルな話を聞くにつれて、母もあのとき余裕がなさすぎたのかなって思うようにはなった。実はさ……、これは母や祖母がちゃんと話してくれたわけではなくて、子供のころに親戚とか周りの大人が話してることを聞いてて、あとになって私が推測したことではあるんだけど……」

 今まで人に話したことがないことなので、話そうとしつつも、言葉は駒子の喉元で引っかかってすんなりとは出てこない。なにかとても悪いことを自分が言おうとしているのではないかと、緊張で胸の辺りが冷え、声が少し震えた。

「祖父は、たぶん自殺したんだと思う」

 千景は驚きかけて、声が大きくなるのを抑えた表情になってしばらく沈黙があり、それから、

「そうなんや……」

 と言った。

「たぶん。川沿いの道を運転してて単独で柵に突っ込んだあと川に落ちた事故死だって、母も祖母も言ってるんだけどね。

 どうも、母と祖母が祖父と借金の今後について話し合おうとしたら激怒して、おれが死んで保険金で返せばいいんだろうって言い捨てて出て行ったらしいんだよね。二日ほど行方がわからなくて、それから警察から事故の連絡が来て……」

「それは……、なあ……」

 千景は言葉にならない返答をして、溜息をついた。

「しかも事故の状況からなのか、結局保険金は下りずに借金だけ残って。母も祖母も、自分たちが問い詰めたせいじゃないかって意識を抱えてきたから、祖父のことや、借金や店を引き継いだいきさつも話したがらないのかなと、だんだん思うようになったんだよね」

「そういうことがあったから、お花屋さんを続けることにこだわってんかもしれへんね」

「うん。小学校四、五年くらいからなんとなくそう思うようになって、だから、母に怒鳴られたり物を投げられたりして、怖かったんだけど、でもお母さんも大変なんだからしょうがないって思ってた。

それに、自分の生活はこうやって母が身をすり減らして働いてるから成り立ってるんだって気持ちも大きかったし。父は、叔父さんの会社で働いてるから給料が安いんだ、って私にしょっちゅう愚痴ってて、お母さんが働いてくれてるから駒子は洋服を買ったりできるんだよ、みたいに言ってたし」

 そうかあ、そうかあ、と低い相槌を打っていた千景は、お茶を飲んでまた大きく息をついた。

「こまっくのお母さんも、おばあちゃんも、たぶんお父さんも、大変やったんはほんまやと思うで。こまっくが知らん事情ももっとあったんかもしれへん。

 でも、子供のこまっくがそういう家の中にいてつらい思いして、大人である家族に対して気を遣って生きなあかんっていうのはなあ、やっぱりなあ、どうにかならへんかったんかなって思うよなあ」

「あっ、でも、私目線の話だから、私ばっかりいつも怒られてて、なんだか私が小さくなって震えてたイメージになってるかもしれないけど、私もかなり言い返してたからさ。中学生くらいのときまでは、母に負けずに泣き叫んでたし。自分の気持ちを言おうとするとなんか泣いてしまうんだよね。泣いて叫ばないと言えなくて。そうなると毎回母に、明日目が腫れて学校に行くのが恥ずかしいとか言うくせに泣くなってまた怒られてさ」

 言いながら駒子は笑った。子供のころは泣かないと話せなかったが、今は笑わないと話せないのかもしれない、とふと思った。

 千景は笑わなかった。

「大人と子供やねんから、立場が違うやん。そのときのこまっくは、子供やん。親に頼らないとごはんも食べられへんし寝るところもないんやで」

 真剣な千景の声の響きに、駒子はしばらく子供のころの自分の姿を思い出そうとした。自分からは自分は見えないから、そのとき、子供の駒子がどれくらいの大きさで、どんな顔をしていたのか、駒子にはずっとわからないままだった。この先も。

「そうだね。そう思うようになったのは、ほんとにここ何年かのことかな。友達の子供が育ってくるのを見てて、七歳ってこんなくらいか、十歳ってまだこんなに子供なんだ、って思ったし、家族内や親子の問題が書かれた本とか記事とかもちょこちょこ目にして、少しずつ読むようになったから」

 部屋の中は、駒子と千景の声だけがあって、それ以外はとても静かだった。ときどき冷蔵庫かエアコンが思い出したように唸り、また静かになった。夜だ、と駒子は思った。

「まあ、それは私も似たようなもんかもね。こっちに来てしばらくは、母と距離が取れたせいか、あの人もあの人なりに必死やったんやろな、って考える余裕ができて。でも、ふとした拍子に、いや、あれはやっぱり変な状況やったよな? と思い返すことも増えた。

 小学二年のときやったかなあ、母が入院患者さんの子供を突然うちに連れてきてしばらくいっしょに住んでたことがあったんよね」

「えっ、病院的にそれはOKなの?」

「あかんのちゃう? いくら四十年前でも。入院してたシングルマザーの人が子供預けるところがなくて困ってるからって、でも内緒やから誰にも言うたらあかんよって言われてさ。その子供っていうのが私と同い年の女の子で。隣の小学校やから同級生ではなかったんやけど、仲良くなるというよりは気まずいっていうか、どうしたらええかわからんかったよね、私も、その子も。うちで生活してたのは一か月ぐらいやったかなあ。

そのあと同じ中学になって再会したんやけど、その子は私の家にいたのを知られたくないみたいで、あんまり話すこともなく。あとから考えたらやけど、うちの母はその患者さんにお金も渡してたんとちゃうかな。事情があるとはいえ同級生の家で面倒見てもらってたって、もし私がそうやったとしても友達に知られたくなかったかも。なんていうか、対等な立場じゃなくなる感じがするやん」

 千景は、阿闍梨餅が入っていた小袋を細かくちぎりながら話していた。

「そうか。そういうの、小説やドラマだったらいい話になりそうな気もするけど、実際その立場になってみると複雑だよね」

 と話しながら、駒子は小松原大哉(だいや)のことを思い出した。新しいドラマの企画が進んでいて、もう一度取材をさせてほしいという連絡が少し前に来ていた。大哉と話すのは面倒という気持ちと、このあいだ話したときに伝わっていなかったことを話したい気持ちと、両方あった。

「はー。千景さんのほうも、まだまだいろいろ出てくるもんだね。お母さんと謎の飲み屋やってるお父さんの関係だけでも盛りだくさんって感じだったのに」

「せやなあ。私自身も、忘れかけてたこともあるし、誰かに話してみるまでは普通のことと思ってるというか、わざわざ人に話すほどのことでもないと思ってるからかなあ」

「家族とか家の中のことってそうだよね。それが普通というか、他の家とはなんか違うって思うところはあっても、どんなことも生活の一部になっちゃってるからかもね。それに、人の話を聞いてるときにあれ? と思っても、言いにくいし」

「違うってわかっても、育った家の中で当たり前やったことがなんにしても基準になるからなあ。大人になって、他の家族のことを知って、違うって思っても、奥底のほうに擦り込まれてる感覚を変えるのってめっちゃ難しい」

 そうだね、そうやね、とうなずき合いつつ、駒子も千景もまだ話していないこともあるし、話すべきことだと気づいていないこともたくさんあるのだろうと考えていた。

 外の廊下を歩いて行く靴音がした。二軒向こうの駒子より少し年下の女性はいつもこれくらいの遅い時間に帰ってくるのできっと彼女だろうと駒子は思った。

 少しぼんやりしている駒子の顔を見て、千景が言った。

「大声出すのも、目が腫れるまで泣くのも、私の知ってるこまっくからは想像しにくいけどなあ」

「そうだね。人と喧嘩したり、泣いたり、二十年ぐらいないかも」

 いっしょに暮らしていた人に対しても、最後まで泣くことも大きな声を出すこともしなかった。どう言えばいいのかわからなくて結果的に黙ってしまうことになり、彼にしてみればそれは駒子の不機嫌や怒りの表現に思えたようで、駒子さんは沈黙でぼくのことを責めるよね、と言われた。

「お母さんがキレてるとき、お父さんやおばあちゃんは止めたりせえへんかったん?」

「祖母がどうだったかはあんまり覚えてないんだけど、父は、お母さんを怒らせたり悲しませたりするようなことをしちゃだめだよ、って言ってた」

 母をなだめる父の姿が思い出された。母が落ち着いて風呂に入ったあとや眠ってしまってから、父は母に聞こえないように駒子に言ったのだった。

「駒子は賢いんだから、お母さんを怒らせないように気をつけられるよね、って」

「それはあかんわ」

 駒子が言い終わる前に、千景がきっぱりと言った。

「私もこの何年かいろんな人の話聞いたり、ネットの記事読んだりしてきたけどさ、それは、DVの人が言うことと理屈はいっしょやで。怒らせるようなことをするほうに原因があるって思わせるんやろ」

「……そっか。考えたことなかった」

 父は暴力を振るうことなどまったくなかったし、母のように大声を出すことも物にあたることもなかった。親戚をはじめ、父を知る人は皆、いい人だ、温厚な人だと評し、駒子には、やさしいお父さんでよかったね、と言った。

 DVやモラハラといった言葉が、友人同士の会話によく出てくるようになり、駒子も友人の話を聞いて、それはDVじゃないの、モラハラっぽいよ、などと言うことがあったが、父の言動とその単語やよく言われる特徴が結びついたことはなかった。

 言葉が出てこない駒子を見て、千景は少し慌てた。

「きつく聞こえたらごめんやで」

「だいじょうぶ。ちょっと、びっくりしただけ」

 いつのまにか十二時近くなっていて、駒子と千景は立ち上がって湯飲みや空き箱を片づけ始めた。

「今度衣里(えり)ちゃんと映画鑑賞会するときにまた話そうよ。私も、ちょこちょこ昔の映画とかドラマとか観てるし」

『明日の世界』を千景の部屋で鑑賞した衣里とは、その後も八〇年代や九〇年代の映画の情報交換を続けていて、近いうちに鑑賞会をしようという話になっていた。

「そう! こないだ観てみた映画でめっちゃびっくりするやつがあって! え、なんでそこで急に裸体? って。女性キャラの分類もしたりしてるから、話すことまとめとくわー」

「千景さんの分類、絶対おもしろそう」

 駒子の声にようやく軽さが戻り、千景は自分の部屋に帰っていった。

 

 駒子は湯船に浸かり、ユニットバスのつるんとした天井を見上げた。

 さっき思い出したことで、まだ、千景に話さなかったことがあった。

 母を怒らせるようなことをするな、と言ったあと、父は駒子にこう話した。

「お母さんはね、病気だから仕方ないんだよ」

 やさしく言いきかせる、という感じで父は言った。

「病気?」

 母に持病があるなどと聞いたことがなかった駒子は、飲み込めなかった単語を繰り返した。

「手術や薬で治る病気とは違うんだ。ヒステリーっていう、女の人だけがなる病気なんだよ。だから、お父さんがお母さんを助けてあげないといけないんだ」

「女の人だけの病気だったら、私もその病気になるってこと?」

「それはわからないけど、駒子はいい子だから、ならないかもしれないね」

 じゃあお母さんはいい子じゃないのか、と思ったが尋ねなかった。父は小さな声で続けた。

「お母さんは、特別だから。お母さんは、他の人とは違うんだよ。他のつまらない女の人たちとは違うから、お父さんや駒子が守ってあげないといけないんだ」

    自分がなんと答えたのか、駒子は覚えていない。

 ただ、長い間、自分がもし子供を産んで、母親になったら、きっと母と同じことをするようになるのだと思い込んでいた。だから、中学や高校の友人たちが、たわいない想像として将来子供が何人ほしいとか子供にこんな名前をつけたいなどと話すたびに、怖ろしかった。楽しげに話す友人たちに笑顔で適当な相槌を打ちながら、子供を産むことについて明るいこと、肯定的なことはなにひとつ思い浮かばず、ひたすら怖ろしいと思っている自分を隠すことばかり考えていた。

                                    (つづく) 

 

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