金沢八景に住まいを移して数年経った20年、世の中はコロナ禍に突入。仕事がまったくなくなり、膨大な時間を前に茫然としていたとき、ふと思いました。もし今、私が死んだら、思い出の品々はどうなるのだろう、と。
日記や写真、昔の恋人からもらった手紙、ライター時代に手がけた記事のスクラップ……。引っ越しを繰り返して身軽だった私ですが、なぜかこれらは手放せず、箱に入れて押し入れの奥にしまい込んだままでした。
当時はまだ先生と出会っていなかったので、私の家族は息子だけ。おそらく彼が荷物を整理していて見つけるでしょう。たぶん読んではくれないだろうな。いや、読まれても恥ずかしい。
それより、この種のどうしていいかわからない大きな箱を前に、困り果てる息子の姿が目に浮かびました。それにね、私にとっては大切な品々を、息子といえども誰かに捨てられるのは嫌だった。
そこで、長年しまい込んでいたすべての物に目を通しながら、そのときどきを思い返す時間をたっぷり持ったのです。納得いくまで反芻したら気が済んで、自分の手で処分しました。その品々への思いが私の中で完結したのかもしれません。
私、昔から、人は死んだら「無」になると思っているんです。無になったとき、思いの詰まった品々が残されているのは何か違う。すべてが流れて消えていくなかで、それでも残ってほしいものは何だろう――。
私にとってそれは、これまでに自分が手がけた5本の映画と数冊の小説だけでした。たとえ私が死んでも、作品は観てくれる人、読んでくれる人の中に生き続ける。おそらく死後に残せるものは、形あるものではないのではないか。思い出の品々に別れを告げる間、そんなことを思いました。
それにしても人生って、不思議ですね。約2年後、思想史の市民講座で先生と出会って再婚し、今に至るのですから――。
