甲三郎が眉を寄せた。
眼の中に光が走る。鋭く尖った光だ。
「殺された……。なるほどね」
平左衛門の口調は常と変わらぬものだった。ただ、表情は常より柔らかい。笑みさえ浮かべている。甲三郎の無表情と対になると、その柔らかさがかえって不気味でもあった。
「いや、やはり先生絡みですなあ。一筋縄ではいきません」
「惣名主、喜んでおられるのですか。それとも、ただの戯れ口でしょうか」
「もちろん、喜んでおりますよ。いや、失礼ながら、おもしろいと感じましたので。かの、日野龍堂が実は殺されていたとはねえ」
おゑんは顎を引く。
平左衛門がどういう人間なのか、ほとんど解していない。
当然だ。おゑんごときに容易く見破られるような性根で、吉原惣名主が務まるはずもない。二重に三重に帳(とばり)で正体を隠し、平左衛門は生きている。
好奇の心をたっぷり持っているように振る舞いながら、その実、自分が知らねばならない話、聞かねばならない話だけを選り分けている。
そして、平左衛門の心に引っ掛かるとしたら、ただ一点。
吉原にどう関わってくるのか、こないのか。それだけだった。
「殺されたと断言はしておりませんよ。できるはずもござんせんからね」
「しかし、先生は世間でいうところの病死に疑念を持っておられた。さてさて、真実はどうなのでしょうか。気になるところではありますな」
「川口屋さん」
「はい」
「龍堂の死に様が、吉原に繋がってくるとお考えなのですか」
「さて、どうでしょうか。手前にはわかりかねます。ただ、先生の来し方が、今の吉原に関わってくるのではと、少しばかり疑ってはおりますな。高名な医者の死を含めて」
ああ、なるほどと、おゑんは納得できた。
川口屋平左衛門は、おゑんの過去に気を引かれているわけではない。それが、ほんの僅かでも吉原に影を落とすのではと疑っているのだ。そして、この男なら、影の因(もと)となるものをどういう手段を使ってでも取り除くだろう。
娑婆よりよほど、非情で冷酷な則が吉原にはある。
そして、おゑん自身が影の因と見なされない保証は欠片もない。
よく、わかっている。
それでも、ここまできて後戻りはできない。させても、もらえないだろうが。
おゑんは茶で口を湿らせ、唇を軽く押さえた。
ああ、話があちこちしていますね。堪忍ですよ。昔を手繰り寄せてしゃべっていると、どうしてだか纏まらなくなってしまって。
ともかく、あたしたちは慎ましく生きてはおりました。それでも、江戸で三人が暮らしていこうと思えば、それなりの費えが入り用です。その費えは全て、龍堂から出ていたのは事実です。母がどこで龍堂と知り合ったのか、よくは知りません。ただ、あたしの目を治療する前なのは確かでしょう。そうでなければ、何の伝手もない、分限者でもない流れ者の娘を龍堂が診るはずなどないのですから。
母は江戸で男に囲われ、その男の赤子を産み落としました。ただ、母の身体はお産に耐えられないほど弱っていたのです。
ええ、まあ、いろいろありましたからね。もう、命の限りがきていたのでしょう。末音にもあたしにも、それがわかっていました。母もそうです。わかっていたのですよ。自分がもう、もたないと。そして、赤ん坊も助からないと。
産み月にはまだ間がある冬の初め、母は倒れ、大層な出血をしました。子どものあたしには、母の身体を破って、身体中の血が流れ出たように見えましたねえ。
産婆を呼んでくれるなと、母は言いました。
あたしと末音にだけ看取られて死にたいと。
けれど、お腹の赤子は生きておりました。自力で母の腹から出てくるだけの力はなかったけれど、生きてはいたのです。
弱いながら陣痛がきていました。
あたしと末音は赤子を産ませると決めました。わかっていたのです。母も赤子も助かるはずがないとわかっていたのです。でも、二人とも生きていました。
生きているなら手をこまねいて、死を待つわけにはいかない。
あたしがそう言うと、末音は黙って頷きました。そして、どうすればいいかをあたしに差配してくれたのです。
でも、そのあたりは端折りましょう。女がどんな風に子を産むか。男が知ったからといって何の助けにもなりませんから。本気で知りたいと望めと、胸倉を掴みたいような気には、時折突き動かされますがね。
あれが、あたしが携わった初めてのお産でした。
母も弟も助かりませんでしたけれど。
意外だったのは、龍堂の落胆ぶりでした。母の遺体の前で泣き崩れ、ささやかながら葬儀を取り仕切り、その葬儀の間もずっと泣いておりました。
龍堂がどれくらい母を想っていたか、今でも謎のままです。ただ、誠はありました。
あたしを見捨てませんでしたから。
ええ、母亡き後も米沢町の家に住まわせてくれたばかりか、あたしに医道の手解きもしてくれたのです。母から頼まれていたから、と。
あたしは龍堂の許で学び、育ちました。
父とは呼べませんでしたけれど、師であることは確かです。
伊野屋さんと出会わせてくれたのも、龍堂でした。
「構えは大きくないが、江戸でも五指に入る生薬屋だ。主の薬についての知見は並ではない。ここで学ばせてもらえることは、多々ある」
その言葉通り、伊野屋さんは薬について驚くほど多くを知っておられて、それを惜しげもなく、あたしに伝えてくれました。
父も母もなく、血の繋がらない医者の情けで生きている少女を不憫に思ったのでしょうか。店の奥で異国のものも含め、さまざまな生薬の知見を授けてくれました。龍堂は、それを治療の場で実際にどう使うかを教えてくれたのです。
龍堂はともかく、伊野屋さんは、あたしを我が子同然に扱ってくれました。事あるごとに頭を撫でてくれたものです。「いい子だ、いい子だ。よくがんばったな」って。あの声は今でもよみがえりますよ。
ちょっと甲三郎さん、そんな怪訝な顔をしないでくださいな。
何度でも言いますけれど、あたしだって、人の世の則に沿って歳を重ねてきたのです。赤子のときも、大人に頭を撫でられたときもござんしたよ。女房とか、お内儀とか呼ばれたことは一度もありませんけれどね。
話が長くなりましたね。ごめんなさいよ。
ともかく、あたしは龍堂と伊野屋のご主人のおかげで、医者としての基を作れたのです。むろん、祖父や末音から教えられた技や知見のおかげでもあります。
そして、何より母でしょうか。
母のお産に関わったことで、あたしは……殺したくないと思ったのです。みすみす、女たちを殺したくないと、ね。
ああ、でも、これも話 の本筋とはずれてしまいますね。
少し、急ぎましょうか。
(この章、続く)












