閃光と爆風、街が火の海に
1945年8月8日のこと。母が7歳下の妹を連れて疎開先に来てくれました。明けて9日の朝、川でシーツを洗濯していた母が、戻ってきて物干し竿にかけたとき、ピカッと目がくらむばかりの閃光が。
私は母のそばで妹を見ていたのですが、次の瞬間、ビューンとものすごい爆風で目の前の竹林がザーッと全部なぎ倒されて、普段は見えない竹林の向こうの畑が見えたんです。そして、またザーッと、しなった竹が戻ってきました。
畑から戻ってきた大家さんのおじいちゃんとおばあちゃんは、髪も顔も真っ黒。家に入ると、「囲炉裏の灰が飛んで全部なくなってる!」。爆心地から6キロ離れた山の中でしたが、それほど激しい爆風だったのです。
そのうち、晴れていた空がさーっと曇ってきて雨が降り出しました。その雨が、黒いんです。後に、放射性物質を含んだいわゆる「黒い雨」だったと知るのですが、そのときは煤(すす)や燃えカスが雨に混じって落ちてきたのかな、と思っていました。
村の青年が「峠まで登って様子を見てくる」と出かけていき、しばらくして戻ってくると放心した表情で「長崎は火の海だ」。それを聞いて、母も姉も妹も私もがっくり肩を落としました。家族が死んでしまったかもしれない。そう思うと、夜になっても寝つけません。
そうしたら夜中に、まだ結婚していない2人の姉が、山を越えて命からがら辿り着いたのです。あの暑い8月に着られるだけの洋服を着込み、持てるだけの荷物を持って。消防団の団長をしていた父は、「ここでやらなくてはいけないことがあるから。お前たちは早く疎開先に行け」と言って、家に残ったということでした。
姉たちが語ってくれたところによると、途中、死んでいる人を大勢見た、と。「多良さ〜ん、多良さ〜ん」と呼ばれたから誰だろうと振り返ると、熱線で焼けただれた姿の同級生が「お水飲ませて」と。
姉が水筒から水を飲ませると、「おいしい」。後でわかったのですが、結局、その同級生は亡くなりました。ある夜、姉の見た夢にその同級生が現れて、「多良さん、あのときの水、おいしかった」と言ったそうです。その話を聞いて、家族みんなで泣きました。
上から4番目の姉は、実家の廊下の椅子に脱いだ服をかけた瞬間、ピカッ、ドン。「次の瞬間、ブラウスがなくなっていた。数日後、天井の梁にぶら下がっているのを見つけた」と言っていました。廊下の厚いガラス戸は爆風で割れて、破片がテーブルに突き刺さっていた、とか。
実家は倒壊をまぬかれ、わが家は全員無事でしたが、新婚のいとこは爆心地の近くに住んでいたので亡くなりました。父がバケツを持って遺骨を拾いにいったそうです。
あの閃光と爆風が「原子爆弾」によるものとは、しばらくわかりませんでした。ただ、勤労奉仕で軍の司令部に行っていた3番目の姉が、「8月6日、広島に新型爆弾が落ちたらしい」という噂を漏れ聞いて、姉は8月9日の爆弾もそれではないかとピンときたと言っていました。
原爆が投下された当時、長崎の人口は約24万人。原爆によって、その年の年末までに7万人以上が亡くなり、約7万5000人が負傷したのです。