〈発売中の『婦人公論』9月号から記事を先出し!〉
団地の一人暮らしをありのままに紹介した動画配信で注目を集め、シンプルながら潤いのある日常を綴ったエッセイも人気の多良美智子さん。81年前、生まれ育った長崎で経験した原爆の惨禍と、平和への思いについて聞きました。(構成:篠藤ゆり 撮影:藤澤靖子)
団地の一人暮らしをありのままに紹介した動画配信で注目を集め、シンプルながら潤いのある日常を綴ったエッセイも人気の多良美智子さん。81年前、生まれ育った長崎で経験した原爆の惨禍と、平和への思いについて聞きました。(構成:篠藤ゆり 撮影:藤澤靖子)
きょうだい8人、にぎやかな日々
今年、92歳になりました。子ども時代の長崎での戦争経験は、暗くてつらい思い出ですが、私の人生の一部を占めています。だんだん戦争経験者がいなくなってきている今、お話しする意味があると思っています。
私は8人きょうだいの下から2番目として生まれました。一番上が兄で、後は女の子。父は長崎有数の繁華街・新地町で果物の卸と小売り業を営んでいて、町の住民は日本人が半分、あとは中国人、韓国人、ロシア人などで国際色豊かでした。町内会長を務めていた父のところに、いろいろな国籍の人がしょっちゅう訪ねてくるんです。
私は友達と遊ぶのが楽しみでいそいそと学校に通い、放課後は自宅前の石畳で石けりをしたり、編み物をする母の横で紐を編んだり。戦争が始まると、姉たちは千人針を縫うなど駆り出されていましたが、幼い私は戦争というものをまだわかっていません。その頃は、空襲警報が鳴っても、米軍の飛行機が上空を通り過ぎていくだけでした。
兄に赤紙が届いて出征したのは、私が小学校2年のとき。ある日、母が一生懸命大量におはぎを作っていたのですが、それは久留米の連隊にいる兄に届けるためでした。なぜか器が2つ用意されていて、1つは兄用で、もう1つは上官用。
以前、兄のためにおはぎを届けたところ、上官が全部食べてしまい、兄には届かなかったし、面会もできなかったと、後から聞きました。