竹は女の樹だ。細く、風に容易くしなってしまう。けれど、容易く折れはしない――。江戸の片隅の竹林を背負った家で、「闇医者」として子堕しを行うおゑん。彼女の許に、複雑な事情を抱えた女たちがやってくる。

 

 

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           十一

「夏になれば、蛍が飛びますかね」
 おゑんが言うと、吉原の惣名主は黒目を僅かに動かした。
「この庭にですかな」
「ええ、蛍が飛ぶような風情がござんすね」
「なるほど。小さく、さほど手入れされていない庭でも、先生には風情と映りますか」
「蛍は野の虫ですからね。人の手の入らない場所を好むんじゃござんせんか。いえ、あたしは薬になるもの以外、虫のことなど何一つ知りませんけどねえ」
「薬になる、か……例えば、越冬虫のように、ですな」
 川口屋平左衛門は湯呑を手にちらりと、おゑんを窺った。
「越冬虫は別物に入るかもしれませんが、薬になる虫は意外とたくさんおりますよ、冬虫夏草(とうちゅうかそう)は肺や腎を補い、虻(あぶ)の雌を乾かしたものは血の流れの滞りを治すとも言われておりますから。蝉の抜け殻も湿疹の薬に混ぜ込みますし……ああ、皆さんよくご存じなのは蜂蜜でしょうか。咳を鎮め、疲れを取るのに役立ちます」
「なるほど。蛍は薬にはならぬわけですか」
「そうですねえ。もしかしたら、あたしの知らない薬効があるのかもしれませんが。ただ、闇に飛ぶ蛍を美しいと感じることも、夏の夜、蛍の光を楽しみながら、そぞろに歩くことも人の心身にはよいでしょうね。でもねえ、川口屋さん、虫でも木でも草でも、人のために生きているわけじゃありませんので」
「仰る通りです。人は自分たちに役に立つか立たないかでしか、良し悪しを判じませんからな。けれど、それが人というものでしょう。先生、人は蛍にはなれません。欲も心もありますからな」
 欲と心。どちらも毒になりうる。けれど、その毒を失えば、人は人でなくなると惣名主は言っているのだ。
 この老人と話していると、どんなものでも“人”であることに結び付いていく。そこが、おもしろいし怖くもあった。
 話柄を戻す。自分が今、しゃべるべきことをしゃべる。
「龍堂が亡くなったのは、蛍のころだったでしょうか」
 蛍のころだった。いや、数匹の蛍が、ちらちらと川辺を飾る。まだ、それくらいの季節だったかもしれない。
 龍堂の命日がいつだったか、はっきりとは思い出せない。
 蛍が飛び始める僅か前だったような気もする。だとしたら、もう二月もすれば巡ってくる。
「確か、五十半ば……六十近い享年だった気がします。まあ、六十近くまで生きられたのなら十分でしょう。富も名声も手に入れていたのですから、なおのことです。普通に、亡くなったのでしたらね。ええ、さっきも申しましたように、世間的には病死とされました。自死ではないかと取り沙汰されもしましたが、結局、病死として片付けられたようです。卒中で倒れ身体が思うように動かせなくなり、寝込んでから一月足らずで亡くなった。そういう顛末になっておりましたかね」
「ふむふむ。なるほど。で、先生は、そのころ何をしておいでだったのです」
 唐突に、話の矛先が自分に向いた。
 驚きも身構えもしないが、おかしくはある。
 本当に油断も隙もあったもんじゃないね。
「あたし? あたしのことですか。あ、いえいえ、話しづらくなんてありませんよ。川口屋さんの興を引く話にはならないでしょうがね。あのころは……龍堂の許を離れ、産婆の仕事をやっていました。何人もの赤ん坊を取り上げましたよ。弟のように生まれ落ちてすぐ息を引き取った子にも、母のようにお産に耐えられず息絶えた女にも、たんと出会いました。産めない子を孕んで途方に暮れる女たちにも出会いました。そう……闇医者の域に半歩、踏み込んだ頃合いでしょうかねえ」
 平左衛門は大きく首肯した。
「大層、興を覚えますなあ。そのあたりのお話も詳しく、お聞きしたいものです」
「まあ、川口屋さん。そんなことしていたら夜が明けてしまいますよ。こちらは夜見世が始まる前には伝えるべきことを伝えてしまわなければと、気が気じゃないのに」
 つい、苦笑してしまう。川口屋平左衛門のねだるような物言いがおかしかったのだ。
「では、そこはまた日を改めてお願いしましょう。話を戻しますと、日野龍堂は病死だった。世間では、ともあれ天寿を全うしたと見なされた。ですが、先生は納得できなかったと、そういうわけですな」
 平左衛門が踏み込んでくる。口調がやや強くなった。
「そうですね。龍堂も殺されたのではと疑ってはおります。今でもね」
「龍堂も? それは、どういう意味になりますかな」
 平左衛門と目を合わせる。甲三郎は身じろぎもせず座っていた。
 もう昼見世は引けただろう。遊女たちは夜見世までの短い間、身体を休ませることができるはずだ。もっとも、昼見世で稼ぎのなかった女はここで、妓楼の主や遣り手婆から、こってりと絞られる。折檻を受ける者もいる。
 幻の花、吉原の正体は、いつも無慈悲で容赦ない。

 意味ですか。
 ええ、惣名主のお考えになった通りです。
 明らかに病死でも傷が因で亡くなったのでもない者たちがいたのです。
 はい、“たち”と申し上げました。一人ではござんせん。龍堂を除いても、少なくとも三人が殺されました。あたしが知っている限りにおいてですが。
 龍堂の息子二人、そして妻女です。
 でも、きっと、もっと多くの者が犠牲になっているはずです。
 龍堂は屋敷の一画に、療養所を設けておりました。ああ、違いますよ。八代(はちだい)さまが小石川に造られた養生所とはまるで違うのです。小石川は貧窮者のためでしたが、龍堂はお大尽や高位の者、つまり、たっぷりと財力のある患者のために、贅を尽くした部屋と治療の備えをしたのです。
 身の回りの世話をする女中たちも揃え、病に合わせて食事も工夫し……正直、あたしとしては学ぶところが多々ありましたよ。特に、腎や胃の腑を悪くした患者への食事など、なるほどと感心してしまいましたね。
 え? ええそうです。龍堂が書き溜めた治療用の帳面、薬はむろん、食事や日々の過ごし方まで細かく綴られていたそれが、あたしの手許にあるのです。
 どうしてかって? ふふ、それは追々、お話ししますよ。
 まあ、だからといって、龍堂は金儲けだけに目が眩んだ守銭奴だったわけじゃありません。あまり裕福でない者たちの治療もきちんとやっておりましたから。それほどの熱意はなかったようでしたが、やってはおりました。

(この章、続く)

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