写真/水上俊介
2020年から東京ヤクルトスワローズの監督を務め、21、22年にセ・リーグ連覇。21年には日本一に輝いた高津臣吾さん(「高」は正しくは「はしごだか」)。輝かしい活躍の裏には、どんな思いが隠されていたのでしょうか。高津さんは「ユニフォームを脱いだ今だからこそ話せることがある」と語ります。そこで今回は高津さんの著書『愛と哀しみのスワローズ』より一部を抜粋し、「言葉を武器にした監督の真意」をお届けします。

「年齢」という現実と、マウンドでの違和感

2007年は、「とにかくよく打たれた」という印象が強い。

常にランナーを背負い、ピンチの連続で投げていた気がする。原因を考えれば、スピードもキレも落ちていたのだろう。そうなるとストライクとボールがはっきりしてしまい、甘いコースを狙い撃ちされる。

30代後半という年齢もあり、身体の衰えを少しずつ自覚し始めていた時期だった。それまで勤続疲労を意識したことはなかったけれど、パフォーマンスが落ちてきている事実は否定できなかった。

そんな中で起きたのが、今でも忘れられない「風呂場での骨折」だ。

秋田遠征の際、宿泊先の風呂場で足を滑らせ、左足の親指を床に強打して剥離骨折をしてしまった。すぐに地元の救急病院へ向かったが、診察してくれたおじいちゃん先生の秋田弁がまったく理解できず、コントのような状況になった。

本当に何を言っているのかまったく理解できないのだ(笑)。同行した青森出身のトレーナーが「通訳」をしてくれたのだけど、「えっ、本当にそんなこと言ってる?」と何度も確認して、ようやく自分が骨折していると理解できたほどだ。

古田敦也監督に報告し、翌朝の飛行機で帰京することになったが、実はその1カ月後にはオールスターゲームが控えていた。

左足の傷も癒えぬまま、オールスターゲームでマウンドに上がった。ワンサイズ大きなシューズを用意してもらい、ステップを優しくするなど、患部をかばいながらの投球となった。肩や肘の痛みではないとはいえ、全力投球ができない状態でマウンドに上がるのは、投手として非常にストレスが溜まるものだ。

打者との駆け引き以前に、自分の身体の状態を気にしながら投げなければならないもどかしさ。あの時期は、常にその不自由さと戦っていた。

ただ、このオールスターでは意外なこともあった。落合博満監督率いるセ・リーグは、先発の上原浩治から始まり、継投で登場したリリーフ陣の好投が続き、全員であわやノーヒットノーランという投球を披露する。許したヒットは初回、先頭のTSUYOSHI(西岡剛)の内野安打だけで、あとは死球のみというほぼ完璧な試合となった。

僕は2番手で投げたけれど、骨折の痛みなど忘れるほど無心で抑えた記憶がある。

しかし、オールスターゲームはお祭りだからいいけれど、ペナントレースとなると、そうはいかない。ただでさえ本調子でなかったところに、さらに骨折というアクシデントも加わって、不安はさらに大きくなるばかりだった……。