「引退」という選択肢を捨てた日
翌日、球団事務所で言い渡されたのは、予想通りの戦力外通告だった。
スワローズの一員としてチームを支えてきたという自負はもちろんあった。90年代、野村克也監督の下で迎えた黄金期、日本シリーズでの胴上げ投手、積み上げてきたセーブの数々……。
こうしたことに対する敬意や、感謝の思いはないのか?
せめて、引き際を相談するような配慮があってもいいのではないか?
このときの僕の胸の内には、そんな思いがよぎらなかったと言えば嘘になる。
それでも、それがこの球団の、あるいはプロ野球界の古い体質なのかもしれないと自分を納得させた。いや、頭ではそう理解していても、心からの納得は無理だった。
このとき、ある球団関係者から、「オレは(クビになるのを)知っていたんだけどな」という無神経な言葉を投げかけられた。「この人は何を言っているんだ」と呆れるしかなかった。それ以上に食い下がる気力は、僕にはもう残っていなかった。
すぐに古田さんに電話をすると、「えっ?」と絶句していた。
監督さえあずかり知らぬところで行われた人事だったのだろう。ファンの方々に対しては、最後にあいさつもできず、フェードアウトするように去る形になり、申し訳ないという気持ちはあった。ただ、そのときの僕は、あまりに理不尽な通告を受けたショックから、「もう二度とスワローズとは関わりたくない」とさえ思っていた。
ファンからの温かいメッセージの束を渡されたりもしたけれど、当時の僕にはそれを受け止める余裕もなく、何もせず、何も言わずに去ることこそが、今の自分にできる唯一の意思表示だ。そう考えていた。
その後、他球団からのオファーを待つ気持ちがなかったわけではない。
セ・リーグの他球団へ行ってスワローズを抑え込むという反骨心も、頭の片隅にはあった。しかし、どこからも正式なオファーは届かなかった。
「まだやれる」という自負と、「これが今の自分の立ち位置なのだ」という冷徹な現実。プロの世界、本当に実力があれば、どこかが必ず手を差し伸べるはずだ。
それがなかったということは、当時の僕のピッチャーとしての価値が、その程度のものだったということなのだろう。
スワローズを離れることが決まったとき、僕が決意したのは「野球を辞めるのを、やめる」ということだった。
もしも、球団が他の選手と同じように正式な手順を踏んで引退の相談をしてくれていたら、あるいは僕も「わかりました」とユニフォームを脱いでいたかもしれない。
けれども、あんな終わり方だったからこそ、僕の心には猛烈な闘志が再燃した。
(こんな形で終わってたまるか。どこでもいい、投げられる場所があるのなら、どんなところであっても、投げ続けてやろう……)
所属球団は決まっていなかった。翌08年はどうなるのか、何も決まっていない。不安定な立場ではあったけれど、不思議なことに逆に腹は据わった。「何があっても、野球を続けてみせる」という思いが確固たるものとなった。
年が明けても行き先は決まらず、一人でジムに通い、神宮球場近くの公園の隅でキャッチボールの相手を見つけては肩を作る日々が続いた。
NPB、MLB、マイナー……。
こだわりはなかった。ただ、もう一度マウンドに立ちたかった。
こうして僕は、住み慣れた神宮を離れ、海を越えて再びアメリカ、そして韓国、台湾へと続く流浪の旅へと足を踏み出すことになった。
あの日、横浜からの帰路に感じた静かな絶望感を、僕は今も忘れない。
※本稿は、『愛と哀しみのスワローズ』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです。
『愛と哀しみのスワローズ』(著:高津臣吾/KADOKAWA)
「絶対大丈夫」「チームスワローズ」言葉を武器にした監督の真意
酸いも甘いも噛み分けた指揮官の真実
ユニフォームを脱いだ今だからこそ話せることがある――




