「編み物ってわかりにくい手順でも、目の前で他の人に編んでもらうと、あ、そういうことかってスッと納得できることも多いので、よければ基本練習のお手伝いをさせてください」
「いやいやそんな、永野さんだってお忙しいのに、申し訳ないです」
「実は私も、編み部やろうかなって思ってから、染谷さんに編み方を教わったんです。なので、恩送りというか……それに、実は少し前に編み部のメンバーが一名、定年退職したので、メンバーが増えたら心強いです」
「そうなんですか……えーっ、できるかな……ああでも、挑戦。挑戦は大事ですね」
岩本は後頭部をかきながら福来屋百貨店が創業時から掲げる心得の一つ、挑戦を恐れぬこと、を厳かに口にした。敦子はつい笑った。
「ふふ。あと、創造も大事ですよ」
「そうでした。日本橋本店の子雀たちが象徴する、お客様との三つの約束ですね。誠実、創造、笑顔。編み物はたしかに創造的です。じゃあ、お言葉に甘えて、機会をいただいてもいいですか」
「もちろんです」
敦子は岩本と連絡先を交換した。後日時間を取って一緒に編んでみよう、と約束する。
「朝の忙しい時間帯に、長くお引き留めしてすみません。今日も一日、がんばりましょう!」
岩本は快活に手を振り、福来屋日本橋本店から徒歩十分の距離にある本社の方向へ歩き出した。敦子も「よし」と小さく気合いを入れて、建物の裏手に位置する従業員通用口へ向かう。守衛に会釈し、IDカードを機器にかざしてセキュリティゲートを通過した。殺風景な狭い廊下を進み、ロッカールームで制服に着替えて髪型を整える。
開店前の店内はとても静かだ。節電のため照明がしぼられた薄暗い空間のあちこちに段ボール箱が積み上げられ、スタッフが品出しをしている。
敦子は地下一階の食料品フロアに到着すると、開店作業中のスタッフに挨拶をして回った。「今日乾燥やばくないですか」「二階で風邪が流行ってるらしくて」「あ、待って、川畑さんもインフルで今日お休みなんだ」「地下鉄遅れててめっちゃ焦りました」雑談を交わしつつ一人一人の顔色を見て、体調を把握する。続けて商品在庫を保管している地下二階の冷蔵庫・冷凍庫を点検し、事務所の机に着いた。
昨日の遅番社員からの引き継ぎによると、朝一で連絡しなければならないお客様が二組いる。午前中はクリスマスフェアの売り場確認、午後には新人研修が入っている。食料品フロアの社員のうち二人がインフルエンザで倒れてしまい、勤務の穴を埋めるため、早番だけど閉店時刻まで残業することになっている。昨晩のうちに急ぎ赤字で修正されたシフト表を見つめ、一日の段取りを頭の中で組み立てながら朝礼シートに必要事項を記入した。頭も手も、止まることはない。
新卒で福来屋に入社して、二十五年が過ぎた。途中で四年ほど本社勤務の時期があったものの、基本的にはずっと販売の現場に立ち続けている。全国あちこちの店舗で服を、家具を、食品を売った。入社十五年目辺りから食料品関係の売り場や催事を任されることが増え、この方面でのキャリア形成を会社から期待されているのを感じる。食料品部門は百貨店全体でも客数と商品数が多い、慌ただしい部署だ。特に季節ごとの行事の時期は息つく暇もないほど忙しい。
ただ、敦子自身は忙しさが苦にならないたちで、会社の方針に納得していた。むしろ高額商品を扱う部門のようにお客様一人一人と密に関わり、時間をかけて信頼を形成する仕事の方が勘所がわからず苦労した。次々にやることが押し寄せて、アドレナリンを出しながら急ピッチでそれをさばいていく仕事の方がなんとなく落ち着くし、やりがいを感じる。だから自分は店頭に立ち続けているのだと思う。
売り場別の朝礼で本部からの通達や今日の売上目標、前日のお客様からのお申し出などを共有し、発声練習と軽い体操を行う。今日もよろしくお願いします、と声をそろえて挨拶した瞬間、敦子は自分の中で一段ギアが上がり、体がふっと温まるのを感じた。
開店まで残り十五分。フロア全体の照明が点され、眩しい光に包まれる。敦子は照明器具や防災設備を点検し、通路に物が置かれていないか等の安全確認のため売り場を巡った。チラシ入れの中身をそろえ、フロアスタンドの位置を調整する。
開店五分前を伝える店内アナウンスが流れた。お客様を迎えるため、敦子は自分の立ち位置であるエスカレーターホールに着く。持ち場が近いスタッフとふと目が合い、微笑みを交わす。
何千回とお店を開けてきたのに、開店直前はいまだに心地よい高揚感がある。
開店を告げる華やかな音楽が流れた。スタッフの誰もがエスカレーターやエレベーター、階段の方向を見つめている。
地下一階に、本日一人目のお客様がやってきた。
いらっしゃいませ、と声が広がり、敦子は丁寧に頭を下げた。
