藤川整斎

藤川整斎は沼田藩士である。祖父が下谷の長者町に道場を開いた。整斎は23歳で、藩に出仕していた兄弥八郎とは別に藩に35俵3人扶持で召し出される。のち弥八郎が病気で隠居したため、整斎が家督と流儀を継承した。藤川派は、整斎によって、型稽古に重点を置いて修練するようになった。整斎は著書『霊剣略解』で、本来死物である太刀に自らの精神を移し込み、活物にすることを説いており、またそのように修業しなければ実際には役立たないと指摘している。そしてそのためには、精神を練り、勇気を養うことが肝要であると述べている。

小栗も勝海舟同様に島田虎之助に習っている点や、藤川整斎の祖父が長沼流も習っていたことから、直心影流に他流が加わった一種独特のものになっていた可能性は高いといえよう。

剣術道場は各々の情報交換の場としても使用された。藤川は雑録「天保雑記」・「弘化雑記」・「嘉永雑記」・「安政雑記」を著し、オランダが提出する通常の風説書とは異なる別段風説書の情報も入手していた(岩田みゆき「『別段風説書』の社会への広がり」)。小栗が藤川道場に通ったのは、剣術のみならず、国内外の見聞も深めるためであったとも考えられる。

小栗は柔術を窪田助太郎(清音)に学んだ。助太郎の父勝英(かつふさ)は武術の達人で、田宮流居合、関口流柔術、中島流砲術の師範を務めており、砲術では外記流も免許皆伝で『砲術六合志的集』を著している。助太郎は23歳で大番組に召し出され、親とは別に200俵の扶持を賜っている。後年、老中水野忠邦によって差し控え(自宅で謹慎)を命じられた。この間に小栗が窪田から柔術を学んだとされる。兵学門人は諸侯・旗本以下3000人余、剣術は600人余と伝わる。