絵本作家・エッセイストの佐野洋子さん(写真提供:オフィス・ジロチョー)
『100万回生きたねこ』などの作品で絵本作家、エッセイストとして多くのファンに愛された佐野洋子さんは、2010年11月5日に72歳で亡くなりました。今年は佐野さんの没後10年に当たります。一人息子・広瀬弦さんの目に映った、彼女の老いとありのままの姿とは――。5年前、佐野さんが暮らした山荘に広瀬さんを訪ねた際の記事を再掲します。(構成=本誌編集部)

自分勝手で激しい愛情に振り回されてばかり

申し訳ないんですが、親の老いと言われても、あの人、最後まですごく元気だったんですよ。口が達者で、病院でもけんかばかりしていました。あの世にいる今でもきっと、自分が死んだなんて思っていないんじゃないかな。

そもそも、僕はずっとあの人のことが嫌いだったんです。自分でもどこかの雑誌で「私はダメな母親だった」と書いていた通り、母親としてはあんまり褒めるところがありません。とにかく、わがままで、子どもの僕にも言いたい放題。

周囲から僕はよく“洋子さんに溺愛された息子”として扱われますが、その愛情の注ぎ方は自分勝手で、当事者としては「息子を溺愛している自分が好きだった母親」として認識しています。たぶん、子どもが生まれて、面白いおもちゃを手に入れたくらいに思っていたんじゃないでしょうか。

そうそう、いくつぐらいのころだったか、オヤジとあの人から別々に呼び出されて「もし、お父さんとお母さんが川で溺れていたら、どちらを助けるか」と聞かれたことがありました。子ども心に、これはどちらか一方に決めるんじゃなく、うまくバランスをとって乗り切らなくちゃいけないと思うわけですよ。だから一所懸命、頭をひねって「二人とも助けるよ」とかうまいこと答えようとしました。でも、それじゃ許してくれないんです、あの人。「そんなこと、できるわけがないでしょう」とかなんとか、子ども相手にとことん追及してきて……。大人げないでしょう? 僕の気持ちを量って、面白がっていたんだと思います。

その後、僕が12歳のとき、オヤジとあの人が離婚。どっちについていくかを自分で決めなくちゃいけなくなって、川で二人が溺れていたらという話がまさに現実になりました。正直、僕はどっちと暮らしてもよかったんですが、あの人が「泣いた」と人から聞き、やっぱり女の人のほうが弱いから僕が一緒にいてあげようと思った。でも、うそ泣きだったんですよ(笑)。「それだけ弦のことが大好きで、手放したくなかったんだ」という人もいますが、わがまますぎます。してやられた感じです。