自国の欠点を俯瞰できるイタリアの成熟

10年近く前のことですが、イタリア中部の沖合、ジリオ島付近で大型クルーズ船「コスタ・コンコルディア号」が座礁するという海難事故がありました。浅瀬で横転したままになっている巨大なこの船を港まで牽引するという日、国営放送が中継番組を組んでいましたので私も家で何気なく観ていました。しかし、待てど暮らせどクルーズ船を牽引するはずの船が一艘もやってこない。何事も時間通りに始まることはありませんから、「まあそのうち現れるだろう」と気長に待っていました。

ところがスタジオのキャスターと中継記者とのやりとりが何度かあった末に、「今日はもう作業が行われる目処(めど)は立たない」ということがわかった。中継を受けた報道局のキャスターがそのときに冷静に口にしたのは

「皆さんよくご存じだとは思いますが、これがイタリアという国です」

という言葉です。

イタリアという国が統一したのは今から160年前の1861年のことなので、国民にはイタリアという大きな組織に対し懐疑心を持って分析してしまう傾向が残っているように思われますし、それがこうした俯瞰で自国を批判するきっかけにもなっているのでしょう。
中枢への信用や信頼を抱くことへの危機感から生まれるそうした批判は、個人の思考力や判断力を強壮化する必然性へと結びついていきます。何事にも対する批判の構えと、「信用」「信頼」のもたらす無責任性と危うさ。長きにわたるイタリアでの暮らしで私が何よりもしっかり身につけたものはこういった意識かもしれません。

『たちどまって考える』(ヤマザキマリ:著/中公新書ラクレ)