東京大学史料編纂所・本郷和人さんが分析する「織田信長の運命」
まもなく最終回を迎えるNHK大河ドラマ「麒麟がくる」。いよいよ描かれる本能寺の変で明智光秀(演:長谷川博己)、織田信長(演:染谷将太)がどう対峙するか、視聴者の関心も高まる一方だ。殺された信長からすると、光秀の重用は失敗だったと言えそうだが、東京大学史料編纂所・本郷和人氏は「信長が殺されるのは必然だったのでは」と語る。

※本稿は、3月刊行予定の本郷和人『「失敗」の日本史』(中公新書ラクレ)の一部を再編集したものです。

特殊な人材登用を行っていた信長

信長の最期を考えると、なぜ明智光秀を重く用いたのか、という問題が浮かんできそうです。しかしこれは失敗なのかどうか、よくわからない。むしろ信長という人の構造的な問題だったように思います。信長という人は、人材登用においても、当時のほかの戦国大名とかなり違っていました。

たとえば越前の朝倉。朝倉は「応仁の乱」に乗じて越前を奪い、一乗谷で五代100年にわたる栄華を誇った、要するに戦国大名の草分けのような家でした。小田原の北条も五代100年ですが、戦国時代に突入したあたりに一旗揚げた勢力がそのまま残ると、だいたいどこも五代になるということかもしれません。

その朝倉の初代は孝景です。この家は面白いことに同じ名前をよく使うので、朝倉孝景が2人くらいいます。そのため特に初代を指す場合は、もうひとつの名前だった朝倉敏景と言うと、間違いがない。その敏景が「朝倉敏景17カ条」と呼ばれるものを残しています。それを読むと、さすが朝倉敏景は主君を追い落として、自分の実力で越前の国を奪っただけのこともあり、なかなか合理的な思考の持ち主だということがわかります。

たとえば、わが朝倉家では重い立場の人間だからと、息子がそのまま重い立場に就くことができると思うなとか。戦いのときには占いで作戦を決めるようなことはするな、と書いてある。こちらの方角に攻めると勝つとか、いつ出陣すると勝てるとか、そんなものは迷信だ。戦うとなれば、とっとと戦わないと勝てる合戦に勝てず、落とせる城も落とせない、と言っています。逆に言うと、そうした悠長な戦いが、この時代にまだあったことがわかるのですけれど。