『「失敗」の日本史』(本郷和人:著/中公新書ラクレ)

実朝と京都の関係

実朝という人は、京都の後鳥羽上皇に個人的に忠誠を誓っていた。そして京都のお姫様を奥さんにもらっている。

そのお姫様の姉は後鳥羽上皇の寵愛を受けていた女性で、上皇にしてみれば、自分が愛している女性の妹を実朝に嫁がせたわけで、それは相当に配慮した婚姻だったことになります。

また実朝は、和歌が大好きだったのですが、その添削を当代随一の歌人である藤原定家に頼んでいました。さらに後鳥羽上皇に「鎌倉の田舎だと勉強ができない」とお願いすると「わかった、わかった。じゃあ、家庭教師を派遣してやろう」ということで、 源仲章(みなもとのなかあきら)という、学者ではないのですが、非常に勉強のできる貴族をわざわざ鎌倉に派遣してくれました。

しかも、これは当然そうなってしまうのですが、源仲章は将軍の単なる勉強の師であるだけでなく、鎌倉幕府の運営についてもいろんな意見を出し、政治的に非常に重い役割を果たすようになる。

そのようになると、武士たちの間に「実朝さんは、本当に俺たち鎌倉側の仲間なのか? 平家政権と同じで、京都に近過ぎやしないか?」という空気が広がるわけです。結果、そんなトップは要らないということで暗殺されてしまったのでは、などと僕は考えています。

 

京都には近づかないほうが良かった

実際の実朝の暗殺劇では、 公暁(くぎょう)という人が実行犯だった。彼の背後に誰がいたのかというと、いろんな説がある。しかし僕は要するに「実朝退場は、鎌倉御家人社会の総意だった」のだと思います。

みんなが「あんなリーダーは要らない」と感じていた。だから実朝が死んだあと、公暁一人を殺してしまえば話は終わり。幕府も、公暁の背後に誰がいたのかというような、野暮な捜索はまったくしない。みんなで「いなくなってよかった」で終わりにしてしまった。

では逆説的に「どうすれば殺されなかったか」と考えると、父の頼朝の場合は、鎌倉で武士の政権を発足させた後も、たった2回しか京都に行っていない。やはり、京都に近づかないということが非常に重要だったし、実際に頼朝はそれを、しっかりと守っていたのです。