頼朝は自分の立場をどのように考えていたのか

頼朝が自分の立場をどのように考えていたか。彼自身の発言があります。

鎌倉には上総広常(かずさひろつね)という御家人がいました(大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、佐藤浩市が演じる)。この人はもっとも重要な御家人の一人で、頼朝が成功するために決定的な役割を果たした人物です。

挙兵後、頼朝は家来がまだほとんどいない状況でぼろ負けに負けて、船で海上に脱出し、房総半島に逃れた。その頼朝のところに「家来になります」といってやってきたのが千葉常胤(ちばつねたね)と上総広常でした。

特に上総広常は『吾妻鏡』によれば、なんと2万人という大軍を率いてきたと伝えられます。もっとも2万人はちょっと大げさで、恐らく0がひとつ多いのだろうと思いますが、相当な勢力を持っていた武士だということは間違いない。

その上総広常が一族を上げて頼朝に従ったとなると、「頼朝様はやっぱりすごい」ということで、関東の武士たちはわれもわれもと集まってきた。だから上総広常は、頼朝政権誕生のまさに立役者でした。

しかしその上総広常が1183年、頼朝に殺されてしまう。

源頼朝像(写真提供:写真AC)

なぜ頼朝は上総広常を殺したのか

頼朝という人は弟の義経を殺しているので、「いろんな人を闇に葬っている冷酷な人」というイメージがありますが、調べてみると実はそんなことはない。むしろ彼は「受けた恩は返すタイプの人間」なのですね。そんなやたらめったらと人を葬り去る人ではないのですが、上総広常は殺してしまう。

その理由について、頼朝は二度の上洛のうちの一度、後白河上皇と話し合った、言わば東西巨頭会談のときに「私の家来の中に上総広常という者がおりました」と発言しています。

その者は、我々は武士であって、京都に近づく必要はまったくない。我々は我々の価値観でやっていけばいいのだということを常々申しておりました。それゆえ私が朝廷と交渉を持つこと自体を認めようとしなかった。しかし私の本心としては後白河上皇と朝廷に対して忠誠を尽くしたい。だからそれを邪魔する上総広常は、殺さざるを得なかった。

そのように上皇に申し上げたと伝えられます。