「関東第一主義」への反発

これは『愚管抄(ぐかんしょう)』という歴史書に出ている話であり、恐らく、実際にこれに近いことを頼朝は言ったのでしょう。ただし頼朝が、本当に後白河上皇や朝廷に対して忠節を尽くすことを意図していたかといえば、それは恐らく違う。

だからといって「完全に朝廷と断絶し、関東のことは関東で決めよう」と、関東第一主義を貫こうとした上総広常の主張には「ちょっとおまえ、現実がわかっていないぞ」と見ていたと思います。

つまり政治家・頼朝にとってみると、先行する権力である朝廷と交渉を持って、そして何らかのかたちで武士の政権の存在を認めさせる。それが、鎌倉幕府がソフトランディングを行い、今後も居場所を確保していくために必要な政策だと考えていた。

だから「朝廷は朝廷でやってください、うちはうちでやります」という孤立主義を強硬に主張する上総広常には「それはちょっと違うぞ」と感じていたことでしょう。

 

地元と中央、どっちを優先するか

地元を優先するか、中央との関係を保とうとするか。これで政策が分かれるケースは、結構あります。

頼朝の場合は、地元第一主義を取る上総広常を排除してしまった。そのことを他ならぬ後白河上皇との会談の際に話したということは、これは逆説的に、彼がそれほど関東のことをすごく大事にしていたということなのでしょう。

そのひとつの現れとして、北条政子と権力者になった後も別れていないことが挙げられそうです。頼朝にしてみれば、成功して日本有数のVIPになったわけですから、権力者の常として、どんな女性をも京都の朝廷から呼び寄せることも可能だった。

しかし頼朝はそれをせず、関東の田舎出身の北条政子を非常に大事にする。

そこには、未来のない流人の身の彼を慕ってくれた政子さんに対する私人としての気持ちもあったでしょう。しかしなにより政治家として、「自分は関東に根を下ろして生きていくのだ」という姿勢を内外に表明する意義もあったのだと思います。