「一人にしないで」と泣きわめき

病棟のベッドに夫が横たわったのを見届けて帰宅した。すると玄関を入るなり、誰もいない真っ暗な部屋から、コツコツという響きが聞こえてきた。夫がついていた杖の音だ。「何ぐずぐずしてるんだ」「こっちだって病人なんだぞ」「お前の入院の犠牲者は俺だ」と、夫が叫ぶ声も聞こえたような気がして、しばらく体の震えが止まらなかった。

そしてその夜、遅番の仕事をこなして帰宅してきた次女にすがりついて泣きわめくという醜態をさらした。「お嫁に行くのやめてもらえない?つらい。一人にしないで」。内心母親として最低だと思いながら感情がとめどなく溢れ出てしまった。

次女は「もう、勘弁してほしい」とハッキリ言った。「お母さんが入院しなければお父さんはあそこまで悪くならなかった。お母さんが元気で帰ってくるって一番信じていたのはお父さんだったんだから、責めないでほしい。あとは夫婦二人で頑張ってよ。お父さんの入院中こそ、立て直すチャンスなんじゃないの?」と、涙をぽろぽろこぼしながら訴える次女に私は返す言葉がなかった。

その後1週間、次女は淡々と引っ越し準備を進め、迎えに来た婿殿と仲睦まじくやり取りしながら荷物を車に積みこんだ。「お体くれぐれも大事にしてください。幸せになります」と私に向かって一礼をした二人に、私は表情をこわばらせたまま「気をつけて」と言うのが精いっぱい。誰の世話を焼くこともなく自由なはずなのに、虚しさばかりが込み上げる。一体どうしたことか。私は自分で自分の感情がわからなくなってきていた。

体重は34キロを切り始めていた。食欲もない。何もする気が起きない。近所で、父亡き後45年間気丈に一人暮らしを続ける母を、この時初めてスゴイと感じた。「一人暮らしは他人様が言うほど簡単でも気楽でもない。経済的にも健康面でも自立できていないと難しい。いつだって死と隣り合わせなんだから」という母の言葉が思い出された。