戦争がアカデミズムを狂わせた
しかし1942年、日本が第二次世界大戦に参戦した翌年、その2つのグループは大日本体育会体操部会に統一される。大日本体育会は戦争中に生まれた組織であり、戦力強化のために国民の体力向上を図る方針を打ち出したのである。
1944年度事業方針にはこう記されている。
「戦局の推移に伴ひ、本会の事業も戦力増強の一途に集中せられてきたことは申す迄もありません。即ち体育を通して、ひろく全国々民の体力を向上させて、戦力の増強に寄与することが決戦下本会の使命となり、事業も自ら重点的に行はれるやうになり、不急の事業は当分停止せられることゝなつたのは当然の結果といはねばなりません」(『財団法人大日本体育会要覧』1944年11月)
戦争が激しくなり、軍事色が強い団体が作られたことによって、半ば強引に教員養成系と非教員養成系の対立は解消することになったのである。なお、1944年、大日本体育会理事長に東京帝国大法学部教授の末弘厳太郎が就任している。
「今更申すまでもなく、時局下最大の要務は戦力の増強にあります。そうして戦力の基礎はつきつめて見ると国民の体力であり、気力であります。従つて、体育を通して全国々民の体力を向上せしめ志気を昂揚せしめ之に依つて戦力増強に寄与することこそ吾々体育会に関係する者1同に課せられたる刻下最要の重責であると言はねばなりません」(『体育日本』22巻5号 1944年)
末弘厳太郎の名前は、現在でも法律専門誌で見ることができる。月刊誌『法律時報』(日本評論社)の表紙に毎号「末弘厳太郎創刊」と記されている。それだけ権威があるということだが、法律界の重鎮が、「体力を向上せしめ志気を昂揚」とおよそ科学的ではない言説を披露するとは、戦争がアカデミズムを狂わせたとしかいいようがない。