戦死した大学生オリンピアンたち
話を戻そう。1939年9月、ドイツがポーランドに侵攻したことで第二次世界大戦が始まった。これによってヘルシンキ大会が中止となる。
1943年10月21日、明治神宮外苑競技場で「出陣学徒壮行会」が行われた。40年東京大会においては、ここでホッケーが行われる予定だったが、それが学生を戦争に駆り出した一大国家イベント会場となってしまったことになる。
日本人が初めて参加した1912年ストックホルム大会から36年ベルリン大会までのオリンピック代表選手で、第二次世界大戦の戦死者はどのくらいいただろうか。広島市立大名誉教授、曽根幹子の調査によれば38人が判明している(2020年1月現在)
さらに戦死者のなかで、オリンピック代表だった大学生は曽根の資料によれば以下となる。
・20年大会 水泳=内田正練(北海道帝国大)
・24年大会 水泳=斎藤巍洋(立教大)
・28年大会 陸上=相沢巌夫(京都帝国大)
・32年大会 陸上=長尾三郎(関西大)、落合正義(明治大)。水泳=河石達吾(慶應大)、武村寅雄(明治大)、横山隆志(早稲田大)。ホッケー=柴田勝巳(東京商科大)、中村英一(慶應大)など。
・36年大会 陸上=鈴木聞多(慶應大)、谷口睦生(関西大)、鈴木房重(日本大)。水泳=新井茂雄(立教大)、田中一男(早稲田大)、児島泰彦(慶應大)。サッカー=右近徳太郎(同)、松永行(東京高等師範学校)など。
このうち、1932年大会の河石が銀メダル、36年大会の新井が金と銅メダルを獲得している。なお、36年大会の右近は、幻の40年大会の候補にもなっていた。
1932年大会の競泳銀メダリストの河石は1944年、河石は召集を受けて戦地にかりだされる。前年に結婚したばかりで、このとき妻は身重だったこともあり、見送りにきた兄嫁に「ニ度と生きては帰れません。後のことはくれぐれもよろしく」と言い遺したと言われている。
1945年、河石は硫黄島で戦死とされた。享年33。遺骨は出てきていない。生前、河石は戦地からの手紙でわが子を愛おしんでいた。残された子どもは達雄と名付けられた。
「其後は如何。達雄も元気でないて居ますか。(略)達雄は宝であると同時に生まれたと言ふそのことだけで随分親爺にあれこれ考へさせ楽しませて呉れる。有り難いことだ。達雄万々歳だ」(産経新聞2019年8月14日)
自著『大学とオリンピック 1912-2020』(中公新書ラクレ)に詳しく記したが、1940年東京大会の構想、招致、運営、競技場建設、日本代表選手すべてにおいて、大学が深く関わっていた。大学教授がオリンピックの運営責任者として指導的立場となり、学生は選手として、また競技場建設者としても存在感を示していた。
しかし、その幻の東京大会を支えた大学関係者の多くは戦争によって悲劇的な体験をすることになったと言える。