美男子化を急ぐ義経物語と、そうでない義経物語
前半の楊貴妃なみという形容は、後半の出っ歯説と、あからさまにくいちがう。この矛盾を、われわれはどううけとめればいいのだろうか。
この問題と正面からむきあった国文学の研究は、あまりない。私の目にとまったのは、角川源義の解説だけである。
角川は言う。『義経記』は先行する諸文献をあつめて、なりたった。だが、編集はうまくいっていない。たがいに矛盾する話をならべてしまう「不手ぎわ」が、見てとれる。「美男子化を急ぐ義経物語とそうでない義経物語」が、「同居」したのはそのためだ、と(角川源義、高田実『源義経』1966年)。
たしかに、そういうところはあった。かたいっぽうで美形だと書き、もういっぽうで出っ歯だと言ってしまう。描写の矛盾が、解消されていない。そのまま放置されている。編集上の「不手ぎわ」が指摘されても、しようがないだろう。
しかし、それはただの「不手ぎわ」でしかなかったのか。その点に、私は疑問をいだいている。「不手ぎわ」の背景には、それをささえる文化的な事情もあったと、考えてきた。
次回からは、そこへもわけいりたい。義経の顔には、よりいっそうこだわっていくつもりである。