「重症者リストに登録されました」と連絡が来た時
俊恵 入院した夜に病院から「肺炎が重症化するかどうか、今夜が峠です」と連絡が来た。「そんなに悪かったの!?」と茫然としました。翌朝になり「容体が安定しました」と電話があってホッとしたのもつかの間、またすぐに「今夜が峠です」と連絡が来るの。「いったい何度、峠が来るの?」と思って、毎日、朝が来るのが怖かった。
真 そこからもう一段悪い状態になったのが11日。自分でも意識が混濁し始めたのがわかった。途切れ途切れに聞こえる声の中に、「ICU」という単語が聞こえて、ストレッチャーでバーッと廊下を運ばれて行った時は、本気で「俺はここで死ぬのかな?」って思ったよ。
俊恵 「重症者リストに登録されました」と連絡が来た時は、目の前が真っ暗になったもの。
真 その頃の酸素供給量は10リットル。ECMO(エクモ=人工肺とポンプを使った治療)を使うかどうかの瀬戸際だったらしい。
俊恵 ICUにいたのは数日で、そのあとICUと一般病棟の中間に位置する「HCU(高度治療室)」に移されたのよね。
真 そう。そのあとも咳をしたりトイレで力んだりしただけで酸素飽和度が90%を切っちゃうし、呼吸も苦しいまま。生き地獄が延々と続いている感じだったよ。正直、こんなに苦しいなら、意識を失ってECMOに繋がれたほうがましだと思ったことも。不謹慎ですよね。でも、それだけ追い詰められて、余裕がなかったんです。自暴自棄にもなったし、「神様、もう一度仕事を頑張りたいんだよ。何とかしてくれないかな」って祈ったりもしました。
俊恵 私は私で「今できることをやらなくちゃ」と思い、家の隅々まで掃除して、消毒して、断捨離をしました。空気清浄機もすべての部屋に設置して。
真 唯一の支えは、家族からのLINEのメッセージだったな。
俊恵 パパから「俺、もうダメかも」なんてメッセージがポツリと来て、何言ってるの! と思ったこともあったけれど……。HCUに移ってから、やっとマメに《既読》がつくようになってきて、私も子どもたちもホッとしたわ。その頃には電話で、少しコミュニケーションを取れるようにもなっていたしね。
真 うん。家族だけでなく、お世話になっている方々から励ましや心配のメールをたくさんいただいて、本当に勇気づけられました。おかげさまで容体は徐々に落ち着いて、PCR検査で2度陰性が出て退院が許可された。24時間態勢で懸命に治療して、寄り添ってくださった医療関係者の方々には、感謝の言葉しかありません。