時代のほうが浅川マキにすり寄った
その日から五十年以上たつ。再度、東京へもどった彼女は、やがて寺山修司や寺本幸司らのバックアップで「夜が明けたら」「かもめ」などの歌で、一躍、時代の熱い視線を集めることになる。そういう時代だった。夜の街には熱い血が騒いでいた。
〈夜が明けたら一番早い汽車に乗るから〉
と、小学生までがうたっていた。浅川マキが時代に呼びかけたのではない。時代のほうが浅川マキにすり寄ったのである。
私は当時テレビマンユニオンが制作していた『遠くへ行きたい』の番組に出演するたびに彼女の歌を使わせてもらった。「赤い橋」も、「夜が明けたら」も、映像よりはるかに大きなインパクトがあった。
ときおり金沢で、彼女の出演プログラムを目にすることがあった。ユニークなライブハウスの「もっきりや」が、彼女のベースキャンプのような感じだった。私は新宿の「PIT INN」にも、「もっきりや」にも行かなかった。あの日の午後、西瓜ひとつをさげて訪ねてきた娘のイメージを失くしたくなかったからである。そのかわり、独りのときにはいつも「赤い橋」を口ずさんでいた。
〈渡った人は 帰らない〉
そうだ。人は一生のうちに赤い橋の手前で迷うことがある。その橋を渡ってしまえば、二度と後もどりはできない。
浅川マキの訃報を聞いたとき、そうだろうな、と思った。彼女は「赤い橋」を渡ったのだ。五十数年前のあの頃に。時代が橋を渡れと彼女に呼びかけたのである。
橋を渡らずに一生を終える歌い手もいる。しかし、時代に招かれる表現者は、いつかはその橋を渡る。浅川マキは希有のシンガーだった。私はあの日、大きな西瓜をさげてやってきた彼女と、別れの挨拶をかわしたような気がしている。一期一会の挨拶を。
浅川マキ(あさかわ・まき) 1942年石川県生まれ。キャバレーや米軍キャンプでの歌手活動を経て、67年にシングル「東京挽歌/アーメン・ジロー」を発表。68年、寺山修司演出の舞台に出演し注目を浴びる。69年にシングル「夜が明けたら/かもめ」が大ヒット。2010年、急性心不全により、公演先の名古屋で死去