誰が言いだし、どうひろまっていったのか
1940年代末からの英雄時代論争は、しばしばヤマトタケルに言及した。その活動が英雄的であったのか否かも、論じあっている。とはいえ、ヤマトタケルを英雄だと言いだした者は、もっと前からいた。この論争がはじめてもたらした評価では、けっしてない。
たとえば、民俗学者の柳田國男に「昔話の英雄」(1935‐6年)という文章がある。民衆が語りついだ英雄と、文献をとおしてひろがったそれを、柳田はここでわけている。そして、後者の典型例にヤマトタケルをあげた。「日本武尊(ヤマトタケル)やヘラクレス一流の英雄物語」、と(『定本柳田國男集 第六巻』1968年)。
こういう位置づけの系譜的な調査は、ざんねんながらできていない。誰が言いだし、どうひろまっていったのかは不明である。ただ、ヤマトタケルを英雄の代表格にあげる指摘は、めずらしくもなんともない。ごく、ありふれている。戦後の英雄時代論争より、ずっと前からくりかえされてきた。
それらのなかから、歴史家の中村孝也がのこした指摘を紹介しておこう。彼は「日本武尊説話」という一文を、1935年に書いている(『歴史と趣味』9月号)。その書きだしは、こうなっていた。
「日本武尊は古代史上における神的英雄でいらせられる……また国民的英雄として仰ぎたてまつられるのである」
さらに、中村は女装でのクマソ征伐譚へも、言いおよぶ。『古事記』の叙述ぶりを、つぎのようにほめていた。
「微笑ましき智謀が加へられて、女装の麗人の姿を以て強豪熊襲建(クマソタケル)兄弟を殪(たほ)す場合を説いて来るのであるが、そのお伽噺らしい英雄譚は、正しく児童心理に適合せる教材たる素質を備へてゐる」
女のふりをしてクマソの懐にとびこみ、さしころす。そんなヤマトタケルの手口を、「智謀」と評価する。「麗人」になったまま相手をたおしたことも、「英雄譚」として位置づけた。メルヘンのようなところがあり、子ども用の「教材」にもなるとさえ言いそえて。
戦後になって、やはり歴史家の米沢康が、ヤマトタケルの女装に言及した。「ヤマトタケルノ命の物語――その歴史的基底について」(1956年)で、のべている。以下のようなこれまでの見方は、あらためたい、と。
「ここに注意されるのが命(ミコト)の女装ということである。『英雄』にふさわしい機智と呼ばれ、物語的興味と指摘されてきているが……」(『日本古代の神話と歴史』1992年)