ヤマトタケルから見出され始めたトリックスター性

女装を英雄的な機智という説明でかたづけてしまっても、かまわないのか。物語としておもしろいとするだけで、ことたりるのか。そういう読みときでは、「女装ということの古代的な意義が考えられ」なくなる。女装が「私には……ヤマトタケルノ命の本質にもかかわるものと思われる」(同前)。米沢はこの論文で、以上のように力説する。

戦前の中村は、女装に英雄らしい機略を見た。メルヘンにもつうじる興味を、感じている。こういう説明をはじめて披露したのが、中村だったかどうかはわからない。ただ、古典を読む人たちのあいだでは、この解釈が定着しきっていた。そのままでいいのかと、米沢が問いただすぐらいには、浸透していたのである。

また、米沢も女装が英雄らしくないと、そう言いだしたわけではない。女になりすますヤマトタケルが英雄であることじたいは、みとめている。ただ、「機智」や「興味」の彼方に、「古代的な意義」をさぐりたいというだけである。なお、米沢のいう「意義」については、またあとでふれることにする。

けっきょく、日本の人文学はヤマトタケルを英雄の典型だと、みなしてきた。女にばけて、男をたぶらかすこともふくめ、そうとらえてきたのである。卑劣な振舞であり、唾棄(だき)すべき行動だと、私の知る中国からの留学生たちは言っていた。だが、日本の学界は、そんなふうにとらえてこなかったのである。

もっとも、21世紀にはいってからは、日本でも新しい見方がうかびだす。ユング心理学の人たちが、それまでにない神話読解を、提示しはじめた。たとえば、河合隼雄(はやお)がヤマトタケルの女装を、こんなふうに評している。「『英雄』と言いつつ、トリックスター性をもっている」、と(『神話と日本人の心』2003年)。

やはり、ユング派の林道義も、同じころに言いきった。女装のだましうちは、「英雄のイメージとはずいぶんかけ離れ」ている。「ヤマトタケルはとうてい英雄と言うことはできなくて……トリックスターの方により近い」、と(『日本神話の英雄たち』2003年)。

トリックスターは、いたずら者をさす言葉である。詐欺師や手品師などを、そうよぶこともある。人類学者のなかには、社会をゆるがす逸脱者へ、この名をあたえる者もいる。河合や林は、ヤマトタケルを、そんなトリックスターとして位置づけた。

こういうユング派流の見解が、ひろくみとめられているとは、言いがたい。ただ、われわれのヤマトタケル理解にも、変化のきざしはある。いくらかは、中国風になりだしているということか。

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