源氏と鎌倉のつながりと木曽義仲の数奇な運命
源氏と鎌倉のつながりは、11世紀半ば、源頼義が相模の豪族・平直方(たいらのなおかた)の娘婿となり鎌倉の屋敷地を譲られたのに始まる。以後、源氏は鎌倉を拠点として奥羽への進出を図り、頼義は前九年の役、子の義家は後三年の役を戦い関東に勢力を根づかせた。
義家の曽孫・義朝の時代には、鎌倉を拠点として豪族の所領争いに介入。千葉氏や上総氏、三浦氏などを家人として組織して南関東に勢力を張った。
こうした地盤を受けて、後年、関東を制圧した頼朝は鎌倉に幕府を開いたのである。
一方、義朝一族の勢力に押されて数奇な運命をたどったのが木曽義仲である。義仲の父・義賢(よしかた)は、上野国(こうずけのくに=群馬県)を拠点に北関東に勢力を伸ばし兄の義朝と対立。
久寿2年(1155)、義朝の長男・悪源太義平の襲撃を受け殺される(大蔵合戦)。乳飲み子だった義仲は窮地を脱して母とともに信濃に逃れ、木曽の豪族・中原兼遠(なかはらのかねとお)のもとで養育された。
以仁王の令旨を奉じて挙兵した義仲が、最後まで鎌倉の軍門に降ることがなかったのも、頼朝が父の仇敵だったからにほかならない。頼朝に先んじて上洛した義仲は平氏を都から追い落とし、内乱の転換点を演出するのである。
※本稿は、『歴史と人物7 面白すぎる!鎌倉・室町』(中央公論新社)の一部を再編集したものです。
『「将軍」の日本史 』(著:本郷和人/中公新書ラクレ)
幕府のトップとして武士を率いる「将軍」。源頼朝や徳川家康のように権威・権力を兼ね備え、強力なリーダーシップを発揮した大物だけではない。この国には、くじ引きで選ばれた将軍、子どもが50人いた「オットセイ将軍」、何もしなかったひ弱な将軍もいたのだ。そもそも将軍は誰が決めるのか、何をするのか。おなじみ本郷教授が、時代ごとに区分けされがちなアカデミズムの壁を乗り越えて日本の権力構造の謎に挑む、オドロキの将軍論。