宣長は過剰な深読みにおちいったのではないか
ヤマトタケルが女になりすまして、敵の陣地へもぐりこみ、敵将を殺害する。この物語を読んで、誰が服装の由来に、まず気をまわすだろう。さすがは、ヤマトヒメからのおくりもの。そこにこめられたアマテラスの霊力は、はかりしれないなと、想いをめぐらせる。そんな読者を書き手は、はたしてどれほど見こめたのか。
なるほど、宣長は今のべたように読みとった。『古事記』の完成から1000年以上たって、見ぬいたことになっている。そこでは、伊勢の神、すなわちアマテラスの威光がしめされているのだ、と。
しかし、宣長は生涯を『古事記』の解読についやした学者である。ていねいに、またくりかえし、この古典を読みつづけた。そんな宣長だからこそ、女装譚の背後にも神威が感じられたのだろう。あるいは、過剰な深読みにおちいったと言うべきか。
たいていの読者は、そういうところに気をまわさない。ヤマトタケルは女に変装し、敵をだまそうとする。はたして、最後までばれずに、この作戦を遂行することはできるのか。その可否にはらはらするのが、ふつうの読みとりであろう。サスペンスとして読むべき展開に、ここはなっていると考える。
その意味で、宣長は例外的な読者だったと言うしかない。じっさい、『古事記』ができてから、誰も宣長のようには読んでこなかった。1000年の時をへて、ひとりも想いつけなかった解釈なのである。宣長がひねりだしたのは。
こういう読まれかたを『古事記』の編者が、あらかじめ想定しえたかどうか。その点は、はなはだうたがわしい。
女装用の衣裳は、ヤマトヒメからヤマトタケルへおくられている。『古事記』には、ちゃんとそう書いておいた。だから、皇子が、ただの女装者だとみなされる心配はない。誰もが、ヤマトヒメやアマテラスの霊験譚だと、無理なく読みとるだろう。このくだりをしるした編者が、そう安心しきっていたとは思えないのである。
女装のヤマトタケルは、アマテラスの霊的な加護につつまれていた。ヤマトヒメの霊力にも、まもられている。そう読者に読んでもらいたいのなら、書き手には一工夫あってしかるべきだったろう。
たとえば、ヤマトヒメに神懸りをさせる手がある。アマテラスのクマソ征伐にかける意気込みを、神託としてヤマトタケルへつたえる。そういう段取りをふませても、よかったろう。あるいは、ヤマトヒメにアマテラスの夢を見させても、かまわない。女神と皇子を、直接交信させる手立てだって、講じうる。
何も細工をしなければ、誰もヤマトタケルの変装に神威など感じない。ほうっておけば、女装のおもしろさだけがきわだちかねない話なのである。アマテラスらの神慮を強調したいのなら、それなりの説明をおぎなわねばならない。ただの女装とはちがう。霊的なそれなのだと、わかりやすく直截簡明に。