けっきょくのところ
『古事記』は、神武や神功皇后の叙述に、神威の直接的な描写をくみこんでいた。しかし、ヤマトタケルの女装に関しては、まったくそれが見あたらない。だから、おのずと判断せざるをえなくなる。このくだりで、『古事記』は霊験を読者へうったえかけることなど、ねらっていなかった。手に汗にぎる波瀾の物語をこそ、えがきたかったのだ、と。
とはいえ、さきにものべたとおり神威説が全否定できるわけではない。『古事記』はヤマトタケルのクマソ遠征に、アマテラスらの宗教的な力を投影していた。その推測を、私も実証的にはくつがえしきれていない。理詰めで、ありえないと論じるに、とどまっている。
ただし、たしかな証拠がないのは、宣長の側も同じである。宣長説を反復する今日の学界にしても、決定的なデータを見いだしたわけではない。神威だ、霊験だという人たちは、そう信じたがっているだけである。あるいは、本居宣長の『古事記伝』という権威に、追従していると言うべきか。
ただ、『古事記』がヤマトタケルの女装に神威を仮託していた可能性は、やはりのこる。反論につとめる私も、決定的な反証はひろいだせていない。だから、神威説にたいしては、こうのべておくことにしよう。
『古事記』は、ヤマトタケルの女装に霊的な意味合いをこめたかったのかもしれない。だが、このもくろみは、たとえそうねらっていたとしても、失敗した。少なくとも、読者へつたえることに成功したとは、言いがたい。なにしろ、宣長が言いだすまで、誰も気がつかなかったのだから。
あるいは、こうも言えようか。『古事記』は、アマテラスの神威を、ヤマトタケルの女装に投影しようとする。だが、ある事情でそれをはっきり書くわけにはいかなかった。神武や神功皇后の場合とちがい、間接的な示唆が、そこではもとめられることになる。だから、編者はヤマトヒメに軽く言及するていどの表現しか、えらべなかった……。
本気でのべているわけではない。ただ、その可能性も形式的にはのこると考え、書きとめた。なお、この立論でおしとおす場合は、明示がさけられた理由をさがさねばならなくなる。どうして、ヤマトタケルの場合は、神威の介在をぼかす必要があったのか。その解明が、不可欠の作業となる。
しかし、そんな背景事情が、かんたんに見つくろえるとは思えない。自分で書いておきながらなんだが、今披露した見解はなりたたないだろう。
けっきょくのところ、宣長の解釈や、それにもとづく学界の定説は、まちがっている。私はそう考える。クマソ殺害の物語は、女装者がテロへいたる話として、すなおにうけとめたい。