「今回、母には仏壇の前で手を合わせながら、『引退を決めたよ』と報告しました」

転機となった社長業

ただ、もともと自分の意思で歌手になったわけでもない僕は、「このまま芸能人としてずっとやっていくのかな」と、ふと考えたりもしていたのです。スタートからして、母親に言われるままに歌の世界に入り、その後も人が敷いてくれたレールにそのまま乗ってきてしまった。

根がくそ真面目なものだから、言われたことには絶対に逆らわずに一所懸命やってきました。息つくヒマもないほど忙しく、常にまわりは大人ばかりです。ああ、自分にはまったく青春はない……。そんな思いもありました。

だから、1982年に佐川急便が出資して設立した「リバスター音産」というレコード会社にビクターから移籍したのは、非常に大きな転機となりました。事業もやってみたかったし、レコードの作り手にもなってみたかった。後援会の会長だった佐川清社長からのお誘いで、歌手兼役員として移籍し、副社長に。のちに社長も務めました。

でも、経営者として手腕を発揮するぞ、と意欲を燃やしていた矢先、政界への金の流れが大問題になった「東京佐川急便事件」が発覚し、会社は解散することに。このリバスター時代のおよそ10年間、歌手としての活動はほとんどしていません。安倍とのデュエット曲「今夜は離さない」を出したくらいです。社長業は頓挫しましたが、実業家の端くれとして経験したさまざまなことは、とても意義あるものでした。

僕の行く道はやっぱり歌しかない。そう考えた僕はビクターに戻り、歌手として再スタートを切ることに。そのことをいちばん喜んでくれるのは、母のはずでした。でもその時には認知症がずいぶんと進んでいた。30年以上も前のことで、当時は認知症という言葉もまだなく、痴呆症と言っていましたね。

前の妻が頑張って介護をしてくれましたが、僕がビクターに戻る前に、88歳で亡くなりました。その姿を見ていた影響もあったのか、娘は介護の世界に進み、いまは介護福祉士、ケアマネジャーの資格をとって働いています。

今回、母には仏壇の前で手を合わせながら、「引退を決めたよ」と報告しました。母が「うん、そうかい」と快く認めてくれたかどうかはわかりません。何しろ母は、僕のコンサートに欠かさず来てくれていた人でしたから。(笑)