舞台が止まってしまうたびに、何を思うべきかさえわからなくなってしまっていた。彼女たちの方が辛いのだし、と思って、しまいこんでいた自分の、残念だ、悲しい、という気持ちをもう一度見つめ返すべきなのかもしれない。そこに一番、私の「好き」はあって、「好き」そのものについて、今だから、ちゃんと、書いておくべきなのかもしれません。

 私は、彼女たちのことが好きだけど、でも彼女たちの「作品」こそが本当に本当に大好きなんだなぁと改めて思います。好きだから元気でいてほしいし幸せだと思う時間ができるだけ長くあってほしいとも思うけど、そうした個人への愛情と同じくらい、彼女たちが作る作品がとてつもなく好きで、見られないことはやはり苦しいし、悲しいです。そしてだからこそ、いつまでも待てるよ、と思います。全てのエネルギーをかけて、存在そのものを作品に変えて、たった数時間の公演で1年とかもしかしたら10年とか反芻し続けることのできるそんな強度のある「美しさ」を見せてくれる。もうそれは単なる「美しさにうっとり……」みたいな時間ではなくて、濃縮されすぎた美しさは「宝塚」としか呼びようのないものになってそこにある。私はその剛腕さが好きで、そして宝塚の強さと圧が全部、お客さんの心をひきつけるために追究された結果なのだというのも、本当に面白いなと感じている。たくさんの人がこの世にはいて、その人たちの目に晒され続けるのだというのは、普通に生きるだけでもとても怖いことだし、他人の目がない世界なんてどこにもなく不安は永遠に尽きることがないけれど、でもそうした世界の中で、むしろ無数の視線に耐えうる強度の作品を作ろうとする、そういう強すぎてポジティブすぎるあり方がこの世にはあり、劇場にはあり、文化にはあり、私はそれが何より信じられるって思ったのです。他のどんなやり方より、直球に世界や他人に向き合っている。私はそれがかっこいいと思う、それがとても美しい作品を生み出しているというそのこともとてもとても好きだ、そのあり方にいつも強く励まされています。

 宝塚は舞台作品を作る場でもあるけれど、芸名を持つ「タカラジェンヌ」という作品をそれぞれの演者さんが作っていく場でもあるのかなって思います。宝塚は男役も娘役も完全な偶像の存在で、現実と地続きではないから、芸名を宿した「存在」そのものを0から作り上げるしかなく、そのパワーこそが宝塚公演のエネルギーの源なのだと思っている。誰もが「自分」と共に生き続けて、そこは決して切り離せなくて、それはとても息苦しいことでもあるはずなのに、宝塚を見たあとは、見ていただけであるはずの私さえも自分が「自分」であることに物凄くパワーを感じられるというか、「私」として生きていくことがとても楽しく無限の可能性を持つことであるように感じられ、勇気としか呼びようのない明るい気持ちになれるのです。