「認知症」の症状が少しずつ表れ始め、娘の扶美さんのもとに、母ののぶよさんが住む家の光熱費の督促状が届くようになった――。(提供:photoAC)
内閣府が2019年に行った調査によると、60歳以上の人で万一治る見込みがない病気になった場合、約半数(51.1%)の人が「自宅」で最期を迎えたいと回答したことが明らかになった。週刊誌記者として終末期に直面した現場の声を聞いてきた笹井さんいわく、「家で死ぬことは簡単じゃない」とのこと。関西地方で認知症の母(80代)を介護する娘(60代)のもとを訪ね、その胸の内を聞いてみると――。

認知症の母を介護する娘

「ほら、食べて」

のぶよさん(87歳)が、取材で訪れた私に、冷奴を勧めてくれる。でも私はあいまいに笑い、それに手を出せずにいた。のぶよさんが豆腐パックをひっくりかえして、自分と私の皿に中身(豆腐)を出した―まではいいのだが、そこに彼女はどぼどぼとポン酢をかけた。"ポン酢の海"に浮かぶ豆腐。食べなくても、それがどれだけしょっぱいか想像がつく。

「冷えてておいしい」

自分の分の豆腐にもしっかりとポン酢をかけ、それをほおばり、のぶよさんはうれしそうに言う。

ふと台所に立っていた扶美さん(62歳)が振り返った。扶美さんはのぶよさんの一人娘。テーブルの上の私の冷奴に目を留め、「もう~、海になっているじゃない」とぶつぶつ言いながら、流しでポン酢を切ってくれ、再び私の目の前に冷奴を置いてくれた。ようやく安心して私はそれを口に入れる。「おいしい」とつぶやくと、目の前ののぶよさんがニッコリ笑った。

のぶよさんは46歳の時、14歳年上の夫を亡くした。扶美さんが20歳の頃のことである。以来、のぶよさんは夫の事業を引き継ぎ、50代後半まで社長として懸命に働いてきた。再婚をせず賃貸住宅に一人で暮らしていたそうだ。

しかし2010年の年末、のぶよさんはがんを発症し、7時間におよぶ大手術を受けた。そして翌年は療養のため、娘の扶美さん、扶美さんの夫、夫妻の子どもたちとの同居生活……。子どもたちといってもこの頃、すでに成人しており、高齢者と孫の生活リズムが合わない。次第に家庭内に不穏な空気が漂うようになった。