イギリス在住のブレイディみかこさんが『婦人公論』で連載している好評エッセイ「転がる珠玉のように」。今回は「少しずつ、少しずつでも。」。コロナ禍が続くなか、リモートでの取材やイベントに大活躍してきたiPadのスクリーンが割れてしまった。家族の入院中に活用し、不安も回復の喜びもともにしたタブレット。その話を医療従事者の友人に話すと、なぜか彼女は涙をためて――(絵=平松麻)

コロナ禍を共にした相棒

iPadのスクリーンが割れた。このiPadは過去3年のあいだ、大活躍してきたヒーローだ。

コロナ禍で日本に帰れなくなってから、リモートに切り替わった取材やメディア出演、イベント登壇など、それらすべてをこのiPadを使って果たしてきた。パソコン内蔵カメラの性能は劣悪なので映像がざらついてしまうし、スマホの小さな画面は老眼の身には厳しく、ミュート解除してくださいとか言われてもマイクの形をしたアイコンが見えない。

そんなわけで、iPadの独擅場になった。以前は、原稿はパソコンで書くし、外出にはスマホを持って行くし、というわけで、いまひとつ存在価値がわからなかったiPadが、一転してなくてはならない仕事の相棒になったのである。

私生活でもこいつは重要な役割を果たしてくれた。たとえば、うちの連合いががんで入院したとき、息子がこのiPadに彼の好きな映画をダウンロードして病室に持って行った。このiPadを使って、連合いは何度も病室からビデオ通話をかけてきた。彼が病棟でコロナを併発したときも、このiPadを使って看護師がフェイスタイムで連合いの様子を見せてくれた。

「覚悟をしてください」と医師に言われたときには、どうしてスクリーン越しにこんなことを言われなければいけないのかとタイミングの不幸を呪った。奇跡のように連合いが回復したときにも、まだ生きて呼吸している彼の姿を、看護師がこのiPadを使って見せてくれて、家で息子と一緒に泣き笑いした。

わたしにとって、コロナ禍の思い出のほとんどがこのiPadと共にある。だから、そのスクリーンが割れてしまったのは、相棒がついに力尽きてしまったようで、なんとなく寂しい。

というようなことを久しぶりに会った友人に話していると、なぜか彼女は涙をためて俯いていた。瞬時に「しまった」と思った。この友人は看護師だったのである。