歴史はこう動いた!頼朝と義経の対立と守護・地頭の設置
平氏滅亡後、頼朝と義経の関係は急速に悪化する。戦場で独断専行があった、三種の神器の宝剣を失ったためなど諸説あるが原因は不明だ。義経が後白河法皇に接近しすぎたためという説もある。
鎌倉幕府の基盤は「御恩と奉公」にある。鎌倉殿が御家人に所領安堵や官位の推挙など御恩を与え、御家人は合戦や御所の警備などの奉公で応える関係だ。朝廷と直接結びついた義経の行動が、主従関係の基盤を崩す危険性を頼朝は感じたのかもしれない。
頼朝は義経の鎌倉入りを許さず、所領を没収し、暗殺の刺客を京に送り込む。これを知った義経は法皇に強要して頼朝追討の宣旨を獲得したが兵は集まらず、京から逃れて各地に潜伏した。
頼朝は追討を命じた法皇を非難し、義経捜索を名目として全国に守護・地頭の設置を認めさせた。
守護は諸国の軍事・警察を担う職、地頭は荘園の管理人である。守護・地頭の任命は鎌倉殿の権力の根幹であり、これをもって鎌倉幕府の創立とする説が有力だ。さらに、頼朝は義経に味方した公家を解官し、親鎌倉派の公卿を要職につけるなど朝廷改革まで断行する。
頼朝は義経との関係悪化を利用して、武家政権の基礎を固めたのである。
※本稿は、『歴史と人物7 面白すぎる!鎌倉・室町』(中央公論新社)の一部を再編集したものです。
『歴史と人物7 面白すぎる! 鎌倉・室町』(中央公論新社編・刊)
保元、平治の乱から応仁・文明の乱までの15大合戦と、「男と女」「復讐」「武士の生活」などの9つのキーワードで、鎌倉・室町の実像を生き生きと描く。単に合戦の経緯を解説するだけでなく、合戦が起こった時代背景や原因、対立した人物や一族郎党の相関図、合戦の結末がどう政治情勢や時代の動きに影響を与えたのかを、多角的に解説する。また、テーマ解説では、最新の中世研究を抽出し、リアルな中世像を展開する。