屋島の戦いの敗北で平氏は制海権を失う

その後、義経は京の治安維持にあたり、源範頼(のりより)が和田義盛、北条義時ら東国の御家人を率いて中国・九州へ遠征する。

しかし、兵糧不足により成果はあがらず、元暦二(1185)年2月、ふたたび義経に出撃命令が下される。

暴風雨の中、少数の軍勢で阿波国(あわのくに=徳島県)に渡った義経は、讃岐へ入り、屋島の山麓にある安徳天皇(あんとくてんのう)の内裏を急襲。海上からの攻撃を想定していた平氏軍は、背後からの奇襲に驚いて海に逃げた。

その後、海上の平氏と陸の源氏の間で小競り合いが繰り広げられ、義経の身代わりで戦死した佐藤継信(さとうつぐのぶ)、扇の的を射抜いた那須与一(なすのよいち)などが逸話を残した。

図:一ノ谷から壇ノ浦へと平氏を追いつめる源氏の動き(『歴史と人物7 面白すぎる!鎌倉・室町』より)

ついに平氏は屋島を放棄して逃走する。瀬戸内の制海権を失った上、範頼が九州を制圧したことで彦島で孤立。滅亡は時間の問題となった。