俳優として活躍しながら、その間々に、時にレーサー、時に音楽プロデューサー。

――レーサーね。1965年ごろ、高倉健さんとレース観に行って、面白そうだなと思ったけど、そのとき俺、免許持ってなかった。免許ないとライセンスもらえないから、急いで免許取ったの。

その足でスポーツカー買って、一晩中走って鈴鹿サーキット行って、いすゞワークスがちょうどレーサーのテストをやってた。そこへ潜りこんで、そうしたら俺、結構速かった。

それで契約して、レースもヒルクライムだったりサーキットだったりダートトラックだったり。第二回のグランプリにも出場するはずだったのが、その練習中に福沢諭吉の曽孫で人気レーサーの福沢幸雄が事故死した。

それで事務所からストップがかかって、俺は出られなかった。マカオに行って、マカオグランプリには出たけどね。

音楽プロデューサーのほうは、70年代に3年間くらいヨーロッパ各地をバンドで回ってたことがあった。ロンドンで自分たちのレコーディングをすることになったら、そこにプロデューサーというものが存在することを知ったんですよ。音楽プロデューサー。

日本へ帰ってきて、俺もそれをやってみよう、となって、日本初のインディペンデントプロデューサー。72年には矢沢永吉のいたキャロルのプロデュースをしてますね。