そこまでの信仰を持つに至ったかの説明が欲しい

本来、日本の神や仏は厳しくないのです。「我に背くならば、お前には生きる意味が無い・・・」とか、そんな恐ろしいことは言わないのです。

だから日本では、純粋な教義の対立では血が流れなかった。異端審問や魔女裁判なんてなかった。

そこで一向一揆に戻ります。彼らは阿弥陀様を信仰します。

「なむあみだぶつ」の「なむ、南無」とは「帰依する」の意。だから「なむあみだぶつ」は「私は阿弥陀様におすがりいたします」ということです。そこまではいい。

では、一揆に加わっていた武士や農民たちは「領主の軍勢と戦って死んだら、阿弥陀仏が極楽に往生させてくれる」と本当に信じていたのでしょうか。

けっこう多くの研究者はそこに特段の疑問を持たず、「そうです」と軽く答えてしまいがちなのですが、ぼくは疑り深いせいか、日本人の精神史を踏まえてみたとき、戦国の人々だけがガチな「信仰心」を持っていたとは思えず・・・。

もし持っていたとするなら、どうしてそこまでの信仰を持つに至ったかの説明が欲しい、と思ってしまうのです。そう、それは家康も認めなかった、キリスト教のありように繋がっていくのですが。

阿弥陀様への信仰を巡って、主家への忠誠心に篤いはずの三河武士団は割れます。ドラマ内で瀬名さん奪還に一役買ったあの人など、意外な人物までが、史実としては一向宗側についたり。

この時、彼らは仏がいかにして殿さまよりも貴いと考えたのでしょう。そしてドラマはそれをどう描くのでしょう。

とても興味があります。注目しましょう。