なぜ中部地方で一向宗は一大勢力になったのか

高野山の荘園に住む武士たちは、高野山に集結し、強大な軍事権力を構築した。このとき、「仏の前での平等」という概念は、それぞれの荘園の武士たちを「ヨコ」に結びつける接着剤となる。

彼らは主従性に基づいた「タテ」の関係で結ばれた武家勢力と戦い、敗北していった。

紀伊国では高野山、根来寺、粉河寺など、真言宗寺院が強力だったので、これらが「小規模な武士たち」の結集の場となった。

だが、一向宗の力が強かった地域もあった。数多くの「小規模な武士たち」が村落を代表するリーダーとなるためには、生産力の高い地域である必要がある。それは具体的には中部地方である。

畿内は伝統的な寺院の力が色濃く残存しているので、一向一揆が結ばれにくい。関東は生産力が低いので、数少ない「中規模の武士」が戦国大名の家臣になっていく。

これに対して中部地方は、「小規模で多数の武士たち」が「阿弥陀の前での平等」の概念をかかげてヨコに連携し、一大勢力となった。そして彼らは織田信長と長い期間、死闘を展開したわけです。

長島一向一揆。信長は三度にわたって長島を攻めるも、凄惨を極めた戦いを通じ、織田方も庶兄の織田信広や弟の織田秀成ら、多くの一族が命を失うことになる(『太平記長嶋合戦』歌川芳員 【刀剣ワールド】 touken-world-ukiyoe.jp

信長の軍勢と一向一揆とは、在地に勢力を有する(というか、在地性を捨て去れない)武士たちが中軸となる軍事組織なのだが、かたや「タテ」、かたや「ヨコ」と異なる方向性を有していたために、適当なところで妥協することができず、有名な信長による”虐殺”という悲劇が生じることになってしまった――

そんなことを卒論にまとめました。