「店を手放そうと決めたのは、体力的に続かなくなったから。70歳手前頃、詩も小説も書けなくなってしまってねぇ。ひとことで言うと『枯渇した』ということでしょうね」(撮影:本社・奥西義和)
70歳を目前に体力の限界を感じたという、作家のねじめ正一さん。東京・阿佐谷の商店街で愛された「ねじめ民芸店」を閉店することを決意しました。寂しさを感じたものの、心の風通しが良くなったといいます(構成=篠藤ゆり 撮影=本社・奥西義和)

詩も小説も書けなくなって

2019年8月7日、父から受け継いだ、民芸品や和風雑貨などを扱う「ねじめ民芸店」を閉店しました。71歳の時です。

僕はこれまで、現代詩、俳句、小説、エッセイ、児童書など、言葉にまつわるさまざまな仕事をしてきました。1989年に『高円寺純情商店街』で直木賞を受賞してからは仕事の量も幅も広がり、ラジオのDJもしたし、テレビにもずいぶん出たものです。そのすべての仕事が、ねじめ民芸店を土台にしていたといっても過言ではありません。

詩人のグループが訪ねてくると、店の2階でワイワイやりました。直木賞の受賞後は取材が殺到しましたが、2階でインタビューに答え、店の前で写真を撮るのがお決まりのパターンだった。原稿を書くのも2階です。書斎などというカッコいいものではなく、半分は商品の倉庫で、空いているところにソファと机を置いて仕事をしていました。

編集者たちが打ち合わせのために来た時に座るソファには、茶摘みに使うような大きな竹かごが置いてあったり、本棚の上には不良品の南部鉄瓶が並んでいたりして、いつ落ちてくるか、と怖い状況で。倉庫なんだか仕事場なんだか、もう、ぐっちゃぐちゃ。

ある日突然訪ねていらした詩人の大先輩の谷川俊太郎さんは、驚きの目で「えっ!ねじめさん、ここで仕事やってんの?」。こんな場所でやっていけるのか、心配してくれたんでしょうね。自分でもよくあの場所で書いていたと思うけど、「ねじめ民芸店店主」ということも、僕の付加価値だったと思います。

その店を手放そうと決めたのは、体力的に続かなくなったから。70歳手前頃、詩も小説も書けなくなってしまってねぇ。ひとことで言うと「枯渇した」ということでしょうね。僕はそれまで、知識を蓄えて何か書くというより、瞬発力だけで表現してきた。でもそのすべてを出し切ってしまい、自分の中に何もなくなってしまったんだね。

表現したいと思っても、そちらに気持ちがいかない。何もする気が起きず、昼間も布団をかぶって寝ているような状態が続き――あまり言いたくはないけれど、うつ状態だったんだと思います。

人と会いたくないし、奥さん相手にしょっちゅう愚痴をこぼしていた。「愚痴は1日2時間まで」と時間制限され、「今日はちょっと長いんじゃないの?」と言われたことも。でも内心、僕のことを、心配していたんでしょうね。

一方、2人の子どもたちは、むしろ毎日店番をしている母親のことを心配していたようです。毎日朝起きたら店に行き、閉店までいるというのは、けっこう大変ですから。そんなわけで、夫婦で相談して、「50年やれば親父も許してくれるよね」などと言いながら、店を畳むことを決めました。