コロナにかかったことすら忘れるかも……?

対談だけではない。ほかにもさまざまな問題が生じている。締め切りを忘れる、事務連絡を忘れる、支払いを忘れる、契約の更新を忘れる、というような失念のオンパレードで、先日なども、飛行機のチケットを予約している途中で自分のパスポートが切れていたことに気づく体たらくだ。最初はそういう自分に衝撃を受けながらも、「やーねー、もう」と笑いとばしていたが、こういうことが起こり続けると怖くなる。もはや、どこで何を忘れているかわからないので、そのうち取り返しのつかないことが起きてしまうのではないかという、言い知れぬ不安に包まれてしまうのだ。

それにしてもコロナというやつは賢い。4回もワクチンを打ち、2度もコロナにかかった人間の抗体をすり抜けるほど変異を繰り返し、なんとか生き延びようとしている。そのうち人は、ブレインフォグによって自分たちがコロナにかかったことすら忘れ、「なぜか急にいろんなことを忘れるようになったんだよね、どうしてなんだろう」と首をひねりながら、あっちこっちで失念や失態を繰り返し、世界中を大混乱に陥れるのではなかろうか。いっこうに戦争が終わらないのも、世界経済の減退も、すべて政治家たちのブレインフォグが原因かもしれない。

などと話を法外に巨大化させているのも、わたしのブレインフォグのせいだろう。暗い題材のエッセイだからほのぼのと着地させたいと思うのに、頭がうまく回ってないので、どんどん逆の方向にむかっている。このままでは、ハルマゲドンの可能性について書きかねない。

なんとかほのぼの路線にUターンできないものかとキーを打つ手を止めてみると、机上に散らばった折り紙の数々が目に入った。認知症対策には折り紙が効果的というので、保育士時代に子どもたちと動物を折った日々を思い出して(この記憶はまだ飛んでなかった)、キリンやペンギンやゾウなど、本を見ながらせっせと折ったものたちが散らばっている。さながら小さな動物園のようだ。

かわいらしくていい感じではないか。このエッセイを世界終末戦争で終わらせないためにも、折り紙をエンディングに持ってくるのはいい。ちょっと違うかもしれないが、それは世界の平和を祈念して折り鶴を折る行為にも似ている。そう思いながら桜色の折り紙を手に取ったが、鶴の折り方が思い出せないことに気づき、わたしはまた呆然として世界の終わりについて思索している。