嫁入りの際、父が作ってくれた椅子はまだ現役

師範学校を卒業して小学校の先生に

当時、女は裁縫で身を立てるぐらいしか道のない時代でした。私もすっかりそのつもりでいたら、先生が「哲ちゃんみたいに不器用な子に裁縫は無理じゃ」って。ありゃー、どうしたもんかと思っていると、父が先生と相談したんでしょう。「師範学校に行け」と言うんです。全国師範学校入試問題集とやらをドンと渡されて、しぶしぶ勉強することに。

でも、根がのんきなものだから、受験前日も父に連れられて初めて銭湯へ(笑)。ゆっくり温もったおかげで頭の回転がよくなったのか、同じ教室で受験した16名の学生のなかで私だけが合格しました。

師範学校に5年通い、20歳で尋常小学校の先生になりましたが、その翌年には太平洋戦争が開戦。当時の親はみんな生きるのに精一杯で、子どもに手をかける時間もありません。だからそのぶん、先生としてできることを精一杯しました。

子どもたちを長椅子に座らせて順番に爪を切り、髪をとかして、鼻水を拭いてやるのが日課。お漏らしした子のために着替えのズボンを用意しておいて、濡れた下着は川でザブザブ洗いました。

「せんせーい、今日もやりよるのー!」とバスの運転手さんが声をかけてくれるから、「はいはーい!」と濡れた手を勢いよく振ったもんです。

運動会で披露するのは、男子は銃剣術、女子は長刀。はじめのうちこそ、子どもたちも「紀元は2600年~」と無邪気に歌っていましたが、世の中はみるみる貧しく、窮屈に。戦争反対を訴えていた教員組合も、何も言えなくなりました。

終戦直前の福山大空襲は、忘れられません。遠く離れた上下町から見ても東の空が真っ赤。「福山が焼けよる」――そう思うと恐ろしくて、恐ろしくて。慌てて避難し、ふと我に返って自分の手を見たら、大事なものを持ち出したつもりが、布切れ一枚だけを握りしめていました。

今、ニュースでウクライナの様子を見るたび、あのときの動転した自分を思い出し、ウクライナの人たちはどれだけ恐ろしいだろうと胸が苦しくなります。